ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで
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「ワラキア」の記事における「ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで」の解説
15世紀後半には、有力なボイェリで、オルテニアのバン(総督)として事実上の独立した支配者であったクラヨヴェシュティ家からの公位就任がみられた。ワラキア公ミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行公、ヴラド3世の子)と対立していたクラヨヴェシュティ家はオスマン帝国の支援を求め、ミフネアに替えてヴラドゥツ(Vlăduţ)を公位につけた。このヴラドゥツがバンに対して敵意を示すと、バサラブ家はクラヨヴェシュティ家出身のワラキア公ネアゴエ・バサラブの台頭で公式に断絶した。ネアゴエ公の治めた平和な時代(1512年-1521年)は、文化的興隆が特徴的で(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂Curtea de Argeș Cathedralの建設、ルネサンスの流入など)、また、ブラショフとシビウにおけるトランシルヴァニア・ザクセン人商人の影響が強くなった。そしてワラキアは、ハンガリー王ラヨシュ2世と同盟関係にあった。ネアゴエの子テオドシエ(Teodosie)がワラキア公となってから、再び4ヶ月間にわたるオスマン帝国の支配をうけ、ワラキアにおけるパシャルク(パシャ領)創設を目論んだとみられる軍政が敷かれた。この危機が、ワラキア公ラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afumaţi)を支援すべく全てのボイェリを結集させた(彼は1522年から1529年にかけ、4度ワラキア公になっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティ家とスレイマン1世との合意の後、戦いに敗れた。ラドゥ公は結局スレイマンの地位と宗主権を認証し、以前より多額の朝貢を納めることを承諾した 。 オスマン帝国の宗主権はそれから90年間を通じて事実上脅かされることなく続いた。1545年にスレイマンによって位を追われたワラキア公ラドゥ・パイシエは、同年にオスマン施政に対しブライラ港を譲渡した。ラドゥ・パイシエの後継ミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul、在位1558年-1559年)は財産相続権を与えられることなく公位に就くことを強要され、そのために自治権縮小を呑んだ(徴税増額、および親トルコのハンガリー王位請求者サポヤイ・ヤーノシュを支援するためのトランシルヴァニアへの軍事介入実施)。ボイェリの一族らの間の対立がパトラシュク・チェル・ブン(Pătraşcu cel Bun)公時代以後緊迫し、ボイェリが支配者以上に優勢を誇ることが、ペトル・チェル・トゥナル(Petru cel Tânăr)公(1559–1568年、摂政ドアムナ・キアジナDoamna Chiajnaが執政し、徴税の高騰で知られる)、ミフネア・トゥルチトゥル、ペトル・チェルチェル時代には露骨となった。ボイェリたちは、西欧の貴族のような称号を持っていなくとも、財産にものを言わせて官職を買うことは可能であったし、そのうえイスタンブールのスルタンや大宰相に献金をすれば公という最高位も買えた。また、オスマン帝国の方も、古くからあるボイェリによるワラキア公選挙制を残しつつも、帝国の推す人物が有利になるよう買収を行うことは珍しくなかった。同時代のオスマン帝国領ハンガリーやバルカン諸民族と違い、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国が帝国に占領されず、パシャ領にもならなかったのは事実である。しかし、帝国は上記の3公国を属国とみなしていたのである。 オスマン帝国は、オスマン帝国軍の物資供給と維持管理のため、ますますワラキアとモルダヴィアの徴税に頼っていった。一方で地元ワラキアの軍は、強いられる負担の増加や、傭兵軍のほうがはるかに効率的であることが明白となったことから、やがて消滅してしまった。
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