ミトラィユーズの軍用装備としての影響
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「ミトラィユーズ」の記事における「ミトラィユーズの軍用装備としての影響」の解説
ミトラィユーズの貧弱な性能が及ぼした長期の影響は、歴史家の間で少々の論争の対象となった。『Machine guns: An Illustrated History』では、J・ウィルバンクスが、普仏戦争でのこの兵器の効果の無さが、特にヨーロッパ大陸の各国陸軍における機関銃配備への長年の反対という結果を招いたと主張している。フランス陸軍が1897年にオチキス機関銃の装備を選択するまで、自動式の機関銃の採用に至らなかったことは真実である。この後にはホッチキス Mle1914重機関銃の配備が続いた。フランス軍はまた、もう一つ自動式の機関銃であるサン=テティエンヌ Mle1907重機関銃を採用した。フランスの部局が機関銃の採用に当たって示した相対的な遅延は、ミトラィユーズの故障によって引き起こされた慎重さの結果であることを示唆している。この論には幾つかの弁明があり、マキシム機関銃は当初から繰り返してフランス兵器局により試験された。 戦争の結果すぐ、フランスでは彼らの装備する伝統的な火砲に対し、より大きな改善を提案した。シャルル・ラゴン・ド・バンジュの開発した野戦砲用部品(1877)と、最終的にはM1897 75mm野砲としてよく知られる火砲を開発する強い動機づけとして、1870年から71年における作戦中のフランス軍火砲の故障が挙げられた。標準状態で1分当たり15発の砲弾を砲撃する1門の75mm砲は、6km離れて1分当たり4,350個の致死的な榴散弾の弾片を投射したが、これに対して1門のReffyeミトラィユーズは、1分当たり75発の弾丸を2kmの距離から投射した。兵装システムの効率性は、30年で2桁増強された。 このような改良で火砲がより長射程化したにもかかわらず、いまだにより良い短・中距離歩兵支援火器を開発する必要が残っていた。1871年から1890年代までの期間に、種々の新規なヨーロッパ製、またはアメリカ製の手動機関銃が設計され、多くのヨーロッパ陸軍によって採用された。多量のガトリングガンがアメリカ合衆国から購入され、アフリカ、インドおよびアジアにおける植民地戦争で西ヨーロッパの大国により用いられた。普仏戦争中の1871年前半には、25門のガトリングガンがフランス軍の手で実戦投入された。これらは西フランス、ル・マンでの交戦で特に巧妙に運用された。さらにフランス兵器局は、彼らの海軍と東部の防塁のために、多数の手動式機関砲を購入した。37mm多銃身速射砲、いわゆるホチキス製「リボルバーカノン」が、国外在住のアメリカ人ベンジャミン・B・ホッチキスの会社によって、1879年以後フランスで製造された。しかし1890年代までに、ヨーロッパの陸軍はマキシム機関銃やコルト・ブローニングM1895重機関銃、1897年製のオチキス機関銃などの完全自動式の機関砲に賛同し、彼らの保有するガトリングガンや手動式機関砲を退役させ始めた。このような兵器は、1914年に勃発した第一次世界大戦により一般的かつ悪名高くなった。
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