ミエレツ戦区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
サノク (Sanok) ミエレツ (Mielec) 1944年8月17日もしくは19日、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊はサノクから約100キロメートル北西に位置するミエレツ (Mielec) 戦区へ車輌輸送され、再び「シェーファー」戦闘団の指揮下に置かれた。 8月20日から21日にかけての夜、アンリ・フネSS義勇中尉の第3中隊は親衛赤軍1個歩兵大隊の攻撃を受けた。第3中隊は敵の第一波を白兵戦の末に撃退したが、その後すぐに赤軍の迫撃砲と対戦車砲による猛烈な砲撃が開始された。この攻撃に直面したシャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Charles Laschett) の小隊はフネから後退許可を得、マックス・キカンポアSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Max Quiquempoix) の小隊と合流した。しかし、キカンポアの小隊は度重なる白兵戦で消耗し、大隊長ピエール・カンスSS義勇大尉の大隊本部まで退却した。ラシェの小隊は熾烈な防衛戦闘を繰り広げたが、21日の夜明けまでに赤軍に包囲され、自力での脱出は不可能となった。 包囲されたラシェの小隊を救出するための最初の試みは第3中隊本部要員リュシアン・アンヌカールSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Lucien Hennecart) の部隊によって行われたが、この攻撃は撃退されてしまった。中隊長であるフネはその後も3度に渡ってラシェの小隊の救出を試みたが、いずれも損害を伴ってソビエト赤軍に撃退された。そして、激戦の末に弾薬が尽きたラシェの小隊の生存者は赤軍に降伏した。 21日正午、フネは中隊の生存者に「後退してモクレ村(Mokre:デンビツァ (Dębica) から約10キロメートル北に位置する村)まで突破せよ」と命じた。今やフネと行動を共にする第3中隊の生存者は50名以下にまで減少しており、さらにフネは生存者の足手まといになりたくないと望んだ数多くの重傷者を置き去りにせねばならなかった(この時点で第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の他の中隊も戦闘可能人員は50名前後にまで減少していた)。 21日夜、大隊長ピエール・カンスSS義勇大尉は中隊長を集め、「ホルスト・ヴェッセル」師団から受け取った命令を伝達した。それによるとフランス大隊は新たな陣地を確保し、赤軍の進撃を食い止めねばならなかった。この時、フネは散り散りになった第3中隊の将兵が集まるまで陣地で待機せよと命じられた。 8月22日午前、フネは第3中隊の将兵が集まるのを未だに待っていたが、その時にドイツ国防軍兵士の一団と合流した。フネもこのドイツ兵たちも上級部隊との連絡を失っているという点で似ており、彼らは波のごとく押し寄せる赤軍に対して共に立ち向かった。 しかし衆寡敵せず、同日午後1時にフネとこのドイツ兵たちはデンビツァ (Dębica) 南部の小さな町まで後退した。彼らは赤軍の車列が道路を通り過ぎる度に身を隠していたが、しばらくするとドイツ軍の車列が近づいてきたため、彼らは路上に姿を現してその車列に乗せてもらった(この時、2日2晩も不眠不休で戦い続けてきたフネはすさまじい疲労感に襲われ、眠りに落ちた)。 やがてフネ一行を乗せた車列はデンビツァに到着し、フネは武装親衛隊やドイツ国防軍、野戦憲兵の将兵をかき集めた混成部隊「ムラー」戦闘団 (Kampfgruppe „Muller“) に編入された。同戦闘団の歩兵・機関銃手・工兵の指揮官としてフネはデンビツァ防衛戦に参加したが、榴散弾の破片によって肩に傷を負い、(後送を拒否したにもかかわらず)治療のため後送された。フネが去った後の第3中隊の指揮はアベル・シャピィSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Abel Chapy) が引き継いだ。こうして、フネにとってのガリツィアの戦いは終わったが、この戦いにおける功績を認められ、後の1944年9月21日にフネは二級鉄十字章と戦傷章黒章を受章した。 1944年9月1日、ガリツィアの戦いで消耗した第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊はタルヌフ (Tarnów) 鉄道駅を出発し、再編成のため旧ダンツィヒ回廊へ向かった。
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