マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役とは? わかりやすく解説

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マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役」の解説

マルコ・ポーロの『東方見聞録』には以下のようにマルコ・ポーロ伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。 「…さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさ聞かされてこれを征服しよう思い二人将軍多数の船と騎兵歩兵をつけて派遣した将軍一人はアバタン(アラカン阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋乗り出し長い航海の末にこの島に至った上陸するとすぐに平野村落占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアン船団ひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島鷹島)があり、船団いやおうもなくこの小島ぶつかって破壊されてしまった。軍隊大部分滅びわずかに3万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食糧援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人将軍互いに憎み合い、そねみ合っていたのである一人将軍は嵐を逃れたのだが、小島残され同僚将軍救援には赴こうとしなかった。大風長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カアン軍隊残されたこの小島には人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。さて、逃げ帰った者たちと小島残された者たちがどうなったか、次にお話してみよう。 さて、すでに申し上げたように、小島残された3兵士たちどのようにして脱出してよいかわからず、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。ジパング日本)の王は、敵の一部運命見放され小島残され、他はちりぢりに逃げ去った聞くとおおいに喜びジパング中の船をこぞって小島赴く四方八方から攻め寄せたタタール人モンゴル人)たちは、戦い慣れていないジパング人々が船に警戒の兵を残さず、みな上陸してしまったのを見た思慮富んだタタール人たちは一気動き出し逃げると見せかけて敵の船に殺到すると、すぐさま乗り込んでしまった。船を守る兵がいなかったので極めて容易なことであったさて、タタール人たちは船を奪うと、すぐさま本島向けて出立した。彼らは上陸しジパング王の旗をなびかせ進んだ首都を守る人々はこれに気付かずてっきり味方帰って来たのだと思って中に入れてしまった。それでタタール人たちは入城しすぐさま城郭占領し住民たちをすべて外に追い払ったのである。もちろん美しい女たちだけは手元留めた。さて、カアン軍隊はこうして首都占領したであったが、これを知ったジパングの王と軍隊とは大い悲しみ残された何艘かの船に乗って本島に戻ると、兵を集めて首都囲んだ一人として出ることも入ることもできなかった。中に籠もったタタール人たちは7か月の間持ちこたえたその間ことの次第をいかに大カアン知らせるか、夜となく昼となく努めたのだが、結局知らせることはできなかった。もはや持ちこたえられなくなって、命を助けかわりに一生ジパングの島から出ないという条件降伏した。これは1268年起こったことである(文永の役1274年弘安の役1281年)。大カアン逃げ帰った将軍の首を刎(は)ねた。もう一方将軍に対しても、武人あるまじき振る舞いとして、処刑命令出したさて、私は今一つ次のような驚異についてお話しするのを忘れるところであった。それは、戦い初め、大カアン軍隊ジパング上陸して平野占領した時のことであった一つの塔を落とすと、中にいた人々降伏を肯じなかったので、その首を刎ねたのであったが、どうしても八人だけは首を切り落とすことができなかった。その八人は、うまく隠れて外からは見えなかったが、腕の肉と皮膚の間に石を埋め込んでいた。その石には魔術が施れ、決し刃物では殺されぬという効能帯びる。これを聞いたタタール人将軍たちはその八人を棒で殴り殺し、その死骸から石を取り出す大事にしまったのであった

※この「マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「マルコ・ポーロ『東方見聞録』の弘安の役」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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