マフィアボス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 20:11 UTC 版)
コルレオーネ出身者を中心に、広くシチリア各地の出身者を取り込んで急速にネットワークを拡大し、1905年頃までに一大勢力を築いた。1903年3月、プリンス・ストリートの裏通りでマフィア会議が開かれ、カッショ・フェロやモレロ派10人は下らない人数が出席していた(USSSの目撃)。バレルマーダー事件の際、家宅捜索で押収した幾通もの手紙から全米各地のマフィアと連絡を取り合っていたことがわかった。偽造紙幣や不動産売買が軌道に乗ると、ハーレムやロウアーマンハッタンで地元商店への強請りを始めた。商店を襲って金品を奪い、店を守る名目で同じ店から用心棒代を巻き上げるという手口で、要求に従わなければ店の破壊や放火、子供の誘拐を行い、時に店を破産させた。ニューヨーク市警の警官を賄賂漬けにし、逮捕の動きがあると彼らから情報を得て、身を隠した。タマニー・ホールの有力政治家ティモシー・サリバンと人脈を築いて裁判を有利に運んだ。強請、高利貸し、イタリア式富くじ、強盗、紙幣偽造など犯罪の種類は多岐にわたり、得た収入を商店やレストラン、不動産ビジネスに回してマネーロンダリングした。後年捕まったアントニオ・コミトの証言によれば、ボスは社長と呼ばれ、社長に任命された「コーポラルCorporal(幹部)」3-4人が大勢の一般構成員に指示を出すという組織体制で、社長はモレロだった。構成員は、1910年時点で100人程度と見られた。組織メンバーに沈黙の掟を課し、裏切り者は見せしめに残虐な方法で処刑した。一説にモレロが関わった殺人の数は60人とされる。USSSは、2度目の偽札事件があった1902年以降、個々のメンバーを常時監視対象にして、尾行や会話の盗聴を重ねたが、用心深いモレロと仲間の結束力のせいで捕まえられなかった。 1909年3月12日、USSSと連携してモレロ一家を追いかけていたニューヨーク市警のジョゼッペ・ペトロジーノが訪問先のシチリア島パレルモで暗殺されたが、モレロ首謀説がある。
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