マッティア・パシーニとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マッティア・パシーニの意味・解説 

マッティア・パシーニ

(マティア・パシーニ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/21 06:20 UTC 版)

マッティア・パシーニ
国籍 イタリア
生年月日 (1985-08-13) 1985年8月13日(39歳)
イタリアリミニ
ゼッケン 75
レースでの経歴
ロードレース世界選手権 MotoGPクラス
活動期間 2012年
マニファクチャラー ART
チャンピオン 0
2012年 順位 22位 (13 pts)
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
14 0 0 0 0 13
ロードレース世界選手権 Moto2クラス
活動期間 2010年2020年
マニファクチャラー Motobi, スッター, FTR, スピードアップ, フォワード KLX, カレックス
チャンピオン 0
2020年 順位 NC (0 pts)
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
129 2 4 8 2 529
ロードレース世界選手権 250ccクラス
活動期間 2008年2009年
マニファクチャラー アプリリア
チャンピオン 0
2009年 順位 5th (128 pts)
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
32 2 9 0 0 260
ロードレース世界選手権 125ccクラス
活動期間 2004年2007年
マニファクチャラー アプリリア
チャンピオン 0
2007年 順位 5th (174 pts)
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
64 8 17 11 4 603
2010年 ダッチTT

マッティア・パシーニ(Mattia Pasini、1985年8月13日 - )は、イタリアリミニ出身のオートバイレーサー。

経歴

125ccクラスデビュー

9歳でレースを始める。イタリア国内選手権、ヨーロッパ選手権で良好な成績を収め、2004年ロードレース世界選手権125ccクラスに、ルーチョ・チェッキネロ率いるチーム・LCRからロベルト・ロカテリのチームメイトとして参戦を開始した。デビューシーズンはランキング15位に入り、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。第14戦マレーシアGPで予選3番手、決勝7位に入ったのがベストリザルトだった。

2005年シーズンはイタリアのサッカー選手フランチェスコ・トッティがスポンサーになった Totti Top Sport チームに移籍した。多くのレースで先頭集団に入る活躍を見せ、第3戦中国GPではGP初優勝を果たす。第6戦カタルニアGPで2勝目を挙げ、この年のシリーズランキングは4位となった。

2006年にはホルヘ・マルチネス率いるアスパー・チームから参戦し、前年と同じくシーズン2勝(第6戦イタリアGP第10戦ドイツGP)を挙げ、シリーズ4位に入った。

2007年はポラリス・ワールド・チームからの参戦となった。アプリリアの新型マシン、RSA125を駆ることになったが、このマシンは速いものの信頼性に大きな問題を抱え、トップを独走しながらもマシントラブルでリタイヤ、というレース展開を何度も繰り返すことになった。第7戦カタルニアGP、エンジンストールが原因で転倒し、シーズン5回目となるリタイヤを喫した時、激怒したパシーニはマシンを何度も踏みつけた[1]。この行動がチームクルーを奮起させたかどうかは定かではないが、マシンは信頼性を得て第8戦イギリスGP第9戦ダッチTTとパシーニは連勝。その後も好調を維持してシーズン4勝を挙げたが、序盤戦で失ったポイントは大きく、シリーズランキングは5位に終わった。

250ccクラス

2008年は250ccクラスにステップアップ(チームは昨年と同じくポラリス・ワールド)し、開幕戦カタールGPではいきなり優勝という快挙を果たした。序盤5戦で4回表彰台に立つ活躍を見せたが、その後は好調を維持できず、転倒リタイヤが多く完走しても5位以下でのフィニッシュしかできなかった。シリーズランキングは8位に終わったが、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得することができた。

2009年はチーム・トスに移籍し、イムレ・トス(チームオーナーの息子)のチームメイトを務めることになった。ウェットレースとなった第5戦イタリアGPではチャンピオンのマルコ・シモンチェリとのバトルを制し、約1年ぶりとなる優勝を果たした。8月にはMotoGPクラスのミカ・カリオの代役候補[2]としてプラマック・レーシングドゥカティ・デスモセディチのテスト走行をおこなったが、結局パシーニは250ccクラスのタイトル獲得の可能性を優先し、代役参戦は実現しなかった[3]

第14戦ポルトガルGPを前に、チーム・トスはアプリリアにマシン代金を支払えない状況になり、走行を差し止められてしまった。だがパシーニはトーマス・ルティが所属するエミー・カフェラテチームのボス、ダニエル・エップの援助を得て、新しいチーム「グローバルゲスト」から残りシーズンに参戦できることになった[4]。しかしこのシーズンを通してパシーニは走りに安定性を欠き、5度表彰台に立った一方、8度ものリタイヤを喫してしまった。シリーズランキングは5位に終わった。

Moto2クラス

2010年、パシーニは1年ぶりにロードレース世界選手権に復帰したJiRチームから、250ccクラス後継のMoto2クラスに参戦を開始した[5]が、第6戦終了後にチームから契約を解除されてしまった[6]。その後はレギュラーシートを見つけることができず、第12戦サンマリノGPにはイタルトランスSTRチームから、第13戦アラゴンGPにはキーファー・レーシングからとスポット参戦をおこなった[7]が、芳しい成績を残すことはできなかった。

2011年シーズンは、元アプリリアのレース部門責任者であるジャンピエロ・サッキが立ち上げた新チーム「イオダレーシング」からMoto2クラスにレギュラー参戦復帰できることとなった[8]

ロードレース世界選手権 戦績

  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
シーズン クラス バイク 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
2004年 125cc アプリリア RSA
13
SPA
Ret
FRA
12
ITA
8
CAT
11
NED
11
BRA
10
GER
20
GBR
Ret
CZE
14
POR
17
JPN
Ret
QAT
9
MAL
7
AUS
18
VAL
11
15位 54
2005年 125cc アプリリア SPA
4
POR
8
CHN
1
FRA ITA
4
CAT
1
NED
3
GBR
Ret
GER
Ret
CZE
Ret
JPN
5
MAL
3
QAT
9
AUS
4
TUR
2
VAL
3
4位 183
2006年 125cc アプリリア SPA
3
QAT
4
TUR
17
CHN
2
FRA
Ret
ITA
1
CAT
4
NED
7
GBR
3
GER
1
CZE
6
MAL
7
AUS
3
JPN
4
POR
Ret
VAL
9
4位 192
2007年 125cc アプリリア QAT
Ret
SPA
Ret
TUR
Ret
CHN
10
FRA
Ret
ITA
6
CAT
Ret
GBR
1
NED
1
GER
Ret
CZE
2
SMR
1
POR
8
JPN
1
AUS
7
MAL
8
VAL
4
5位 174
2008年 250cc アプリリア QAT
1
SPA
2
POR
Ret
CHN
3
FRA
3
ITA
5
CAT
6
GBR
Ret
NED
Ret
GER
6
CZE
7
SMR
Ret
IND
C
JPN
8
AUS
Ret
MAL
Ret
VAL
9
8位 132
2009年 250cc アプリリア QAT
Ret
JPN
3
SPA
6
FRA
Ret
ITA
1
CAT
4
NED
Ret
GER
Ret
GBR
3
CZE
2
IND
Ret
SMR
2
POR
8
AUS
Ret
MAL
Ret
VAL
Ret
5位 128
2010年 Moto2 モトビ QAT
6
SPA
Ret
FRA
Ret
ITA
Ret
GBR
Ret
NED
14
CAT GER CZE IND 28位 12
スッター SMR
Ret
ARA
Ret
JPN MAL AUS POR VAL

脚注

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  マッティア・パシーニのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マッティア・パシーニ」の関連用語

マッティア・パシーニのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マッティア・パシーニのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマッティア・パシーニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS