ポルトガル軍の人種と民族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:39 UTC 版)
「アンゴラ独立戦争」の記事における「ポルトガル軍の人種と民族」の解説
1900年~1950年代前半までは、ポルトガル人は限られた現地人を雇用して植民地軍を維持していた。司令官と上級下士官は都会軍から徴集し、下級下士官はポルトガルの海外領土住民から成っていた。階級と配属はアフリカ黒人志願兵と白人の混合で、兵役は義務だった。「文明化された」黒人(アッシミラデオス)も理論的には徴兵されたが、実際は一部が兵役に就くだけだった。1951年にアフリカの領土が「植民地」から「海外州」に正式に変わった事で、植民地軍は独自の存在を無くしポルトガル軍に統合された。海外州での徴兵制度は基本的に変わらなかった。モザンビーク人歴史家のジョアン・パウロ・ボルゲス・コエリョによると、ポルトガル植民地軍は人種や民族によって分離されていた。1960年までに兵士は3種類に分けられた。ヨーロッパ人とアフリカ系白人から成る士官と、「文明化された」アフリカ系黒人から成る海外軍と、その他の現地住民から成る現地軍だ。1960年にこの分類は1級、2級、3級と名前を変えられた。1960年代後半に肌の色が公的差別でなくなると、黒人でも士官の最下位の少尉になれるように組織が少しだけ変わった。黒人兵は植民地軍の41%を超える事は無く、戦争開始時には18%だった。コエリョはアフリカ人兵士の認識がアンゴラ、ギニア、モザンビークの戦争を大きく分けたと述べている。対ゲリラ戦が最も上手かったコスタ・ゴメス将軍は、地元住民との良好な関係に腐心し、対ゲリラ戦でアフリカ人兵士を用いた。対照的にスピノラ将軍は、アフリカ人兵士により政治的・精神社会的に要請した。3人の中で最も保守的なカウルザ将軍は、アフリカ人兵士が彼の厳しい制御から外れる事を恐れ、アフリカ人が劣等人種であるという初期の人種認識を変える事が出来なかったようだ。アフリカ現地軍は広く展開されたにも関わらず、最初は徴集兵は非士官という補助的な役割で雇われた。戦争が始まると、下士官のアンゴラ人も戦闘に参加するようになった。500年に渡る植民地支配の中で、ポルトガルは黒人の統治者、校長、警部、博士、海外軍上級士官を1人も生み出せなかった。ポルトガル植民地行政官は差別に基づく教育をした為に、アンゴラ現地人を平等で充分な教育から大きく引き離し、その結果反乱まで黒人の人材が育たなかった。1970年代前半、ポルトガル政府はこれらの欠陥を過ちと認め、彼らのポルトガル領アフリカへの情熱とは反対に、快く肌の色に関係無く教育や訓練の機会を与えた。それが多くの黒人の博士や上級軍人を生み出す事に繋がった。
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