ポルトガル軍の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:37 UTC 版)
「アルジュバロータの戦い」の記事における「ポルトガル軍の作戦」の解説
即位後、ジョアン1世はベアトリスとフアン1世を支持する都市(カミーニャ、ブラガ、ギマランイスなど)への侵攻を開始した。カスティーリャ軍の侵攻の知らせを受けて、ポルトガルの大将軍ヌノ・アルヴァレス・ペレイラもトマールの街でジョアン1世の軍に加わった。そこで、彼らは都リスボンに近づく前に敵軍と対峙することを決定した。 ジョアン1世は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパと結婚することでイングランドと同盟を結んでおり、イングランドの弓兵隊が援軍として派遣されていた。ポルトガル軍はレイリア近郊で侵攻軍を迎え撃つ準備をした。アルヴァレス・ペレイラは戦場としてアルジュバロータ近くのサン・ジョルジェを選んだ。サン・ジョルジェは小さく平坦な丘で、小川に囲まれており、ごく小さな集落が現在も存在する場所である。8月14日午前10時頃、ポルトガル軍は丘の北側に、やがて敵軍の現れる街道へ向かって布陣した。14世紀における他の防衛戦(例えばクレシーの戦い、ポワティエの戦い)と同じように、ポルトガル軍は以下のように作戦を練った。下馬した騎兵隊と歩兵隊は長弓隊と共に両翼を固め、彼らも自然の障害(この戦いでは小川と急な坂)によって防御されていた。後衛にはジョアン1世自身が指揮する増援部隊が位置した。ポルトガル軍はこのように高い丘の上から敵軍の到着を観測することができ、急斜面によって、前面から攻撃を受ける心配は無かった。ポルトガル軍の背後には、最終的な戦場となる狭い坂があり、それは小さな村へと繋がっていたが、そこには対騎兵用の複雑に絡み合った堀が作られていた。この堀を使った戦術はこの時に生まれ、以降イングランド軍には百年戦争で、ポルトガル軍には以降のカスティーリャとの戦いで広く用いられた。
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