ポルトガル議員団訪問中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:59 UTC 版)
「サンタクルス事件」の記事における「ポルトガル議員団訪問中止」の解説
ポルトガルは、1975年のインドネシアとの国交断絶後、国交のない状態が続いたが、1982年の国連総会決議に基づいたハビエル・ペレス・デ・クエヤル国連事務総長の仲介で、ポルトガルとインドネシアの外相による交渉が行われた。しかし、東ティモール人の自決権の行使を求めるポルトガルに対し、インドネシアは自決権は既に行使されたと譲らず、ポルトガルとインドネシアの交渉は平行線を辿った。ポルトガルの主張は、ポルトガルが東ティモールの施政国でありインドネシア国軍の撤退を求めた国連決議に沿ったものだったが、インドネシアとの関係悪化を避けたい欧米日豪の主要国がインドネシアを支持、ないしは消極的立場をとったことから、インドネシアは国連決議を無視しつづけることができた。 交渉は、1980年代末にポルトガル議員団の東ティモール訪問を信頼醸成措置として実施することに収斂していった。1991年8月、これが合意に達し、インドネシア国会を招待者として、訪問は少なくとも11月4日までに実施されることが決定した。東ティモールでは、議員団に同行する報道関係者や国連スタッフに独立のアピールができることから、大きな期待を寄せられた。一方のインドネシア政府は、高揚する独立運動を国際社会に印象付けることを警戒した。 しかし、インドネシア政府は、突然、議員団に同行するポルトガル人記者2人とオーストラリア人記者1人について異議を唱えた。交渉でポルトガル人記者2人については同行を認めたが、オーストラリア人記者については認めなかった。同行を拒否されたジル・ジョリフは、東ティモール問題のエキスパートで、当時のリスボンの外国人特派員協会会長を務めていた。ポルトガル政府は、ジャカルタを経由して東ティモールに入るという訪問ルートについても、インドネシア統治を既成事実化するとして難色を示していたが、渋々受け入れていた。10月25日、ポルトガル政府は、表現の自由は譲れないとして、訪問の中止を発表した。
※この「ポルトガル議員団訪問中止」の解説は、「サンタクルス事件」の解説の一部です。
「ポルトガル議員団訪問中止」を含む「サンタクルス事件」の記事については、「サンタクルス事件」の概要を参照ください。
- ポルトガル議員団訪問中止のページへのリンク