ボーフォートの入り江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:47 UTC 版)
チャールズタウン滞在中、ティーチはウッズ・ロジャーズが軍隊を率いてイギリスを出発し、西インド諸島から海賊を追放する命令を出したことを知った。ティーチの海賊団は大西洋沿岸に沿って北上し、ノースカロライナのボーフォートの入り江に向かった。そこで船の整備をするつもりであったが、1718年6月10日にアン女王の復讐号は砂州に座礁し、メインマストにはヒビが入り、船体は酷く傷ついた。船を助けるため、ティーチは他のスループ船にロープで引っ張るように命令した。しかし、イスラエル・ハンズが指揮するアドベンチャー号も座礁してしまい、修理不可能なほどの損傷を受けた。これによって保有する船は、リベンジ号とスペインのスループ船のみとなってしまった。 ティーチはある段階から王室による恩赦の件を知り、おそらくそれを受け入れる意向をボネットには伝えていた。ただ、この恩赦は1718年9月5日以前に降伏した者に適用される以外に、その免責対象が1月5日以前の略奪行為に限るという規定が存在した。普通に考えれば、チャールズタウンの一件のためにティーチとボネットは絞首刑にされる危険があったが、当局がそれを目こぼしする可能性は大きかった。ティーチはノースカロライナのチャールズ・イーデン総督は信頼できると考えていたが、念のために、他の船長に対する動向を見てから動くことに決めた。ボネットは小さな帆船でノースカロライナの中心地であったバスの町へ向かい、そこでイーデン総督に降伏し、恩赦を受けた。それからボネットはボーフォートに戻り、リベンジ号と残りの船員を招集してセント・トーマス島に向かうつもりであった。ところが残念なことに、ティーチは船の貴重品や船員たちを奪い去っていた。ボネットは報復しようとしたが見つけることはできず、仕方なくボネットと手下たちは海賊行為に戻ったが、1718年9月27日にケープフィア川の河口で逮捕された。その後、チャールズタウンで4人を除いて絞首刑に処された。 著述家ロバート・リーは、ティーチとハンズが戦利品の分け前を増やすために海賊団員の数を減らそうとし、故意に船を座礁させたのではないかと推測している。例えばボネットの手下たちの裁判において、リベンジ号に乗っていたIgnatius Pellは「船を座礁して失ったのは、ティーチ(Teach)の狙いだった」と証言している。リーは、ティーチがボネットにイーデン総督からの恩赦を受けるという計画を実行させたのが、一番ありえるとしている。彼はボネットに自分も後に続くこと伝え、さらに四国同盟とスペインの間で戦争が起きそうな気配であり(四国同盟戦争)、その際にイギリスから私掠免許状がもらえると吹き込んでいた。リーは、他にもティーチがボネットにリベンジ号を返還をしたことも根拠として挙げている。コンスタムも同様にティーチが故意に座礁させた説を提唱し、理由としてティーチはアン女王の復讐号がかえって海賊稼業の邪魔になっているとみなし始めたのではないかと説明している。例えば海賊艦隊が停泊しているとなれば、このことは近隣の街や植民地に知らされ、近くの船は航行を見合わせるだろうから。そのため、船を損壊させたのはやや極端な作戦だったが、あまり長く留まらなかったのは賢明な判断であった。
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