ボーフォート派の勢力拡大
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「ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)」の記事における「ボーフォート派の勢力拡大」の解説
これ以後は徹底抗戦の不利を悟り、ヘンリー6世の信任を得て和平派としてフランスとの和睦を推進、抗戦派のグロスター公・ヨーク公リチャードらと対立した。派閥強化と抗戦派の排除も行い、1440年にグロスター公らの反対を押し切り、和平の一環として捕虜のオルレアン公シャルルを釈放、翌1441年にグロスター公を醜聞に引っ掛けて宮廷出仕を禁じた。 1442年には甥のサマセット公ジョン・ボーフォートをガスコーニュ方面司令官に登用してノルマンディー総督のヨーク公を牽制、1444年にフランスと交渉してヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューの婚約を成立、2年間の休戦条約(トゥール条約)も結んだサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールに目を付け、1445年に彼に権限の大部分を委譲して後見を行った。サマセット公は1444年に急死したが後を継いだ弟のエドムンド・ボーフォートも登用、1445年にノルマンディー総督をヨーク公からサマセット公へ交代させた。 1447年2月、ヘンリー6世の命令でグロスター公は逮捕され獄死した。2ヵ月後の4月にボーフォート枢機卿も高齢のため死去、ボーフォート派はサフォーク公とサマセット公に受け継がれ、ヘンリー6世夫妻に重用され権勢を振るった。だが、専制に走り和平外交が失敗したことでフランスの更なる攻勢とヨーク公ら反対派の怒りを招き、やがて百年戦争の敗北と薔薇戦争の勃発の遠因となった。
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