ホロモイ地区の戦後開拓発電所計画とは? わかりやすく解説

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ホロモイ地区の戦後開拓・発電所計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:32 UTC 版)

神路 (中川町)」の記事における「ホロモイ地区の戦後開拓・発電所計画」の解説

太平洋戦争後が終結した1945年昭和20年)には、失業者対策食糧増産一環として定められた、国の「都市疎開者の就農対す緊急措置要綱」、道の「北海道集団帰農者受入要綱」を受けて中川村においても「緊急開拓本部」が設置され神路含めた未利用農耕地への入植進められた。 こうして住民増えたことにより、教育へのニーズ高まり見せた神路地区においても、前述のとおり小学生列車佐久まで通わなければならなかったが、冬季列車の遅れ、ダイヤ改正に伴う登下校の困難が生じたため、1950年昭和25年)、住民神路駅長・駅職員らが分校開設要請した認可されなかった。 このため同年国鉄好意物置提供し教員佐久小学校から派遣して分校とした。翌1951年昭和26年1月にいったん仮分校廃止となるが、同年4月国鉄から用地借用許可下り同年8月16日に「中川村佐久小学校神路分校」として正式に設置された。翌1952年昭和27年4月1日には「中川村立神小学校」として独立した1953年昭和28年)にはしばらく無人となっていたホロモイ地区開拓計画立てられ1954年昭和29年)にまず5戸が入植しその後1958年昭和33年)にかけ、2戸が入植し、1戸が離農し6戸がホロモイに居住することとなった最終的に1960年昭和35年)が神路人口のピークであり、23123人を数えたまた、同時期に神路集落のすぐ上流天塩川せき止め水力発電を行う「神路発電所計画立案され、1953年昭和28年11月23日には中川村のほか宗谷管内稚内市枝幸町浜頓別町中頓別町猿払村豊富村宗谷村留萌管内天塩町幌延村いずれも当時)の10市町村による「神路発電所誘致促進期成会」が設立されもうひとつ候補地であった智恵文村(現:名寄市)智東との比較結果、翌1954年昭和29年2月には北海道電力本社も「経済審議会申請認可あり次第着工する準備すすめている」と回答した。 しかし、上流常盤村(現:音威子府村)が水没地区農民反対もあって賛成から反対に転じ最終的に神路発電所建設されることはなかった。

※この「ホロモイ地区の戦後開拓・発電所計画」の解説は、「神路 (中川町)」の解説の一部です。
「ホロモイ地区の戦後開拓・発電所計画」を含む「神路 (中川町)」の記事については、「神路 (中川町)」の概要を参照ください。

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