人口のピーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:25 UTC 版)
1951年には稲子の住人は16世帯80人であった。営林署の下請け業務や炭焼きを営む者が多かった。白石営林署の宿舎が3棟建っており賑わいを見せた。林業の仕事でまとまった収入が得られた時期もあり、1960年には最多となる127人の人口を記録した。男たちは炭焼きや営林署の仕事の傍ら、毛皮目当てで村田銃を手に狩猟にも勤しんだ。ムササビ1匹を仕留めれば3-4日は働かずに暮らせる金になった。テンはその6倍の金になり、イタチは2匹で米一俵と交換できた。男たちが作った木炭を背中に背負い、稲子峠を越えて徒歩で町まで売りに行くのは女たちの仕事だった。女たちは、木炭を売った金で米や味噌を購入してまた稲子まで戻った。ゼンマイや、ウド、マイタケ、シメジは付近の山々で取れ、それらを取って回るのも女の仕事だった。山菜や野菜は樽に漬け込んで保存食にされたが、その影響で稲子の住人の塩分摂取量は多めであるとされた。1961年に電線が敷かれ集落に電気が通じるようになるが、戦後しばらくは灯油ランプが使われた。昭和23年夏から水車による自家発電が始まったが、秋は落ち葉が積もって沢の水が少なくなり、発電量が減って電灯が暗くなるような代物だった。電話もこの頃に開通した。生活必需品は、牛20頭ほどを使って、毎日荷物を背負わせて町から稲子まで運んでいた。
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