ペルシアへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
1381年以降にティムールは定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行い、「チャガタイ家にペルシア(イラン)の統治権を奉げる」ことを名分として掲げる。当初のペルシア遠征の目的は領土の拡大ではなく、現地の政権を保護国化することにあった。ほかに本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの発展に必要な家畜などの可動財産と労働力の獲得という経済的な理由、戦利品の分配による配下の忠誠心の維持がペルシア遠征の動機にあったと考えられており、ティムールは遠征に際して情報の収集を入念に進めていく。 1380年に開催したクリルタイで、ティムールはホラーサーン地方の王朝クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーを招集するが、ギヤースッディーンはクリルタイに出席しなかった。1381年にティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。ティムールはヘラートの攻撃前、住民に生命と財産の安全を保障したが占領後に重税を課し、さらに住民の蜂起を危ぶんで塔と城壁を破壊した。この時にヘラートのウラマー(神学者)、イマーム(指導者)がティムールの故郷であるキシュに連行され、装飾された門扉もキシュに持ち運ばれた。1383年にヘラートの住民がティムール朝の徴税人を襲撃すると、見せしめとして王子ミーラーン・シャーによる虐殺が行われる。反乱の責任はサマルカンドに連行されていたギヤースッディーンをはじめとするクルト朝の王族にものしかかり、彼らは処刑された。ギヤースッディーンらの死によって、1383年にクルト朝は滅亡した。 ティムールはさらにホラーサーンの西に進み、同1381年にサブゼヴァール(英語版)に存在したサルバダール政権(英語版)(サルバダール運動 - 英語: Sarbedaran movement)を臣従させる。サルバダール政権の指導者アリー・ムアイヤドはティムールに忠誠を尽くすが1386年に戦死、アリー・ムアイヤドを失ったサルバダール政権は影響力を失う。マーザンダラーンの支配者アミール・ワーリー、ケラスとトゥースの支配者アリー・ベクはティムールに反抗したが、いずれも滅ぼされた。 1383年にスィースターン、1384年初頭にカンダハルを征服し、アフガニスタン全域がティムール朝の支配下に入った。1385年にイラクに存在したモンゴル系国家ジャライル朝の首都ソルターニーイェを占領、同年にマーザンダラーンを制圧した後にティムールはサマルカンドに帰還した。 帰国後およそ1年の間、ティムールは内政と軍備の増強に力を注いだ。
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