ギリシャ地域でのマケドニアの勢力の拡大
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「ギリシャの歴史」の記事における「ギリシャ地域でのマケドニアの勢力の拡大」の解説
これに対し、アテナイ、テーバイは同盟を結び紀元前338年、マケドニア軍と戦ったが、フィリッポス2世はこれに勝利、ギリシャはマケドニア王国に屈することとなった。フィリッポス2世はギリシャ諸都市の代表をコリントスに招集して新たにコリントス同盟(ヘラス同盟)を結び、翌年の会議ではペルシアへの遠征が決定した。しかし、フィリッポスは紀元前336年、暗殺され、その計画は息子のアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれることとなった。 アレクサンドロス3世はギリシャにおける反マケドニア勢力を殲滅した後、コリントス同盟の会議を開き、再度ペルシア遠征を決定した。アレクサンドロス3世はペルシア軍を撃破しながら、シリア、フェニキアを占領、そしてエジプトへ進軍し、アレクサンドリアを築いた。紀元前331年にはガウガメラの戦いにおいてダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破、ペルシアの崩壊は決定的となった。そしてアレクサンドロス3世はペルシア首都スサ、ペルセポリスを占領、エクバタナへ進んでペルシア軍の殲滅を確認した後、ペルシア軍討伐が終了したことを確認してコリントス同盟軍の解散を宣言した。 しかし、アレクサンドロス3世はここでギリシャへは戻らず、さらに東へ向かい、バクトリア、ソグディアナを占領、インドへ向かった。インドでも勝利を収めたが、長期に渡る従軍で疲弊しきっていた兵士たちはこれを拒絶、アレクサンドロス3世は帰国の途についた。アレクサンドロス3世はスサに凱旋した後、綱紀粛正など様々な業務を行い、紀元前323年、バビロンに戻り、アラビア半島への遠征を計画したが、彼は熱病で死去することとなった。 ギリシャではマケドニアの軍事力を背景とした平和が訪れており、一部スパルタが叛旗を翻したが、これも敢えなく撃破され、ギリシャにおける反マケドニア勢力は一掃された。しかし、これらの平和もアレクサンドロス3世がインドから帰国の途に着くと状況が変化を告げていた。そしてさらにアレクサンドロス3世が若くして死去するとアテナイを中心とした反マケドニア闘争、「ラミア戦争」が勃発した。だがマケドニアはこれを殲滅、事実上、ギリシャにおけるポリスの独立は終焉を迎え、民主政も消滅することとなった。 この時代は古典期と比べ、亜流の時代として低く見られることがあるが、この時代にアレクサンドロス大王が東征を行ったことにより、ギリシャ文化が東へ広がりを見せることとなった。しかし、ギリシャ本土では地域的な争いが生じたことで、政情は極めて不安定であった。
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