ギリシャ戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:29 UTC 版)
「第一次ミトリダテス戦争」の記事における「ギリシャ戦役」の解説
紀元前87年にミトリダテス6世はアルケラオスに一軍を与えてギリシャに送った。これに呼応して、アテナイ、ラケダイモン(スパルタ)、さらにボイオティアの大半がミトリダテス6世の味方についた。さらにメトロファネスに率いられたポントス軍の別働隊がエウボイアを攻略した。マケドニアはローマ側につき、ブルッティウス指揮下の軍を南下させた。ブルッティウスはメトロファネスの脅威を退け、ボイオティアのカイロネイアでアルケラオス軍と対陣した。ブルッティウスは兵力の劣勢を悟って退いた。 ここでローマ軍がギリシャに上陸した。ローマ軍を率いたのは、アシア総督に任命されたルキウス・コルネリウス・スッラであった。スッラは5個軍団と若干の大隊をもってギリシャに渡った。スッラの出現でテーバイなどボイオティアの大半はローマに寝返った。アルケラオスはアテナイの外港ピレウスに立て篭った。ピレウス包囲戦(英語版)では、双方の技術と武勇を駆使した激しい攻防が展開された。ローマ軍はピレウス攻略を諦め、飢餓で弱っていたアテナイの城壁を突破すると、アルケラオスは内城に引き下がり、次いで海から撤退した。 これより前、スッラとの対戦中にミトリダテス6世の息子アルカティアスがマケドニアに侵攻して全土を制圧していた。アルカティアスはそこから南下する途中で病死した。アルケラオスはボイオティアに回りこんでこの軍をあわせ、ローマ軍を上回る兵力を得た。しかし紀元前86年に、スッラは山間のカイロネイアの戦い(英語版)で身動きのとれない大軍を撃滅した。アルケラオスは敗兵をまとめていったんエウボイアのカルキスに退いた。すぐにギリシャ本土に再上陸したが、紀元前85年にオルコメノスの戦いで再び敗れてコルキスに撤退した。
※この「ギリシャ戦役」の解説は、「第一次ミトリダテス戦争」の解説の一部です。
「ギリシャ戦役」を含む「第一次ミトリダテス戦争」の記事については、「第一次ミトリダテス戦争」の概要を参照ください。
- ギリシャ戦役のページへのリンク