フランソワ2世の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:01 UTC 版)
「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「フランソワ2世の治世」の解説
16世紀初めにドイツで始まった宗教改革の影響は、フランスにも及んだ。神聖ローマ皇帝カール5世と敵対していたフランソワ1世はプロテスタントに対して比較的寛容であったが、1534年の檄文事件を契機に弾圧に転じる。アンリ2世もこの政策を引き継ぎ、火刑法廷(la chambre ardente)と呼ばれる異端審問を設置してプロテスタントを迫害した。フランスのプロテスタントはジャン・カルヴァンによって創始されたカルヴァン派が主流となり、迫害を受けたにもかかわらず、平民から貴族まで広い社会階層がプロテスタントに帰依するようになっていた。 このような情勢の中、フランソワ2世は15歳で即位した。この前年にフランソワ2世と結婚したスコットランド女王メアリーの叔父にあたるロレーヌ枢機卿とギーズ公フランソワがアンリ2世が死去した次の日に一種のクーデターを起こして権力を掌握し、国王夫妻とともにルーヴル宮へ移った。この数日後にイングランド大使は「ギーズ家兄弟は国王の全てを支配した」と報告している。さしあたり、カトリーヌはギーズ家兄弟とともに働かざる得なくなった。国王は既に成人していたので、彼女の宮廷内での役割は明確ではなかった。それにもかかわらず、国王は全ての国務に際して「これは我が母后が同意されるところであり、予も母后の全ての意見に同意し、故に予はこれに満足し次の命令を発する…」との言葉を添えている。 カトリーヌは新たに得た権力を利用することは躊躇わなかった。彼女がまず行ったことは、ディアーヌに宝器とシュノンソー城を王室へ返還させることだった。その後、彼女は城内のディアーヌによる装飾をできうる限り取り除かせている。もっとも、カトリーヌの報復はここまでで、既に60歳になっていたディアーヌに代わりの領地を与え、余生を全うさせている。 熱心なカトリックであるギーズ家兄弟はプロテスタントの迫害を始めた。カトリーヌは穏健な立場をとりギーズ家による迫害に反対したが、自身はユグノーに共感していたわけではなく、そもそも彼らの信条をよく理解してはいなかった。ユグノーは当初は第一血統親王(prince du sang)であるブルボン家のナバラ王アントワーヌを盟主に戴き、その後、より信仰に熱心な弟コンデ公ルイ1世を盟主としており、彼はギーズ家を武力で打倒しようとする陰謀を支援していた。ギーズ家兄弟がこれを察知すると、宮廷をアンボワーズ城へ移させた。ギーズ公は城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけ、指導者ラ・ルノディーを含む敵の多くをその場で殺害した。生き残りは川に投げ込まれるか、カトリーヌや廷臣たちの面前で絞首刑に処された。 1560年6月、カトリーヌはミシェル・ド・ロピタル(英語版)を大法官に任命した。ロピタルは無秩序が広がりつつある状況下で、カトリーヌとともに法治体制を守るべく画策した。2人は武力行使をしていない、プロテスタントの個人的な礼拝行為は、罰する必要はないと見なしていた。同年8月、カトリーヌはフォンテーヌブロー宮に諮問会議を召集してプロテスタントに発言の機会を与えた。彼らは特定の場所での礼拝の自由を主張しており、まだ妥協の余地は残されていた。しかるに、コンデ公はこの年の秋に南部で武装蜂起をして諸都市を攻撃した。カトリーヌはコンデ公を宮廷に召還し、到着後ただちに投獄した。11月に裁判にかけられ、国王に対する反逆の罪で死刑を宣告された。だが、彼の命はフランソワ2世が中耳炎がもとで死去したことにより救われる。 フランソワ2世が助からないと悟ったカトリーヌは、ナバラ王アントワーヌと結託し、ナバラ王が次の国王(シャルル9世)の摂政に就任する権利を放棄する見返りに、弟のコンデ公を釈放すると約束した。これにより、12月5日にフランソワ2世が死去すると国務会議はカトリーヌを摂政(gouvernante de France)に任命して全権を委任した。彼女は娘のエリザベートに「私の主な目的は私の目の前に神の名誉を抱き、私の権威を維持することです。これは私のためではなく王国とあなたの弟たちの利益を守るためです」と書き送っている。
※この「フランソワ2世の治世」の解説は、「カトリーヌ・ド・メディシス」の解説の一部です。
「フランソワ2世の治世」を含む「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事については、「カトリーヌ・ド・メディシス」の概要を参照ください。
- フランソワ2世の治世のページへのリンク