ファッション帝国
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「ジャンニ・ヴェルサーチ」の記事における「ファッション帝国」の解説
1978年に最初の店舗を開いて後、ジャンニは即座にファッションシーンに国際的なセンセーションを巻き起こした。ジャンニのデザインは鮮やかな色彩と、大胆なプリント、セクシーなカッティングにより、それまでの控えめな色彩とシンプルな形によるファッションシーンを一新した。同時に、彼の作品の「クラシックな豪華さと、過剰なまでのセクシーさの組み合わせ」は数多くの賞とともに、様々な批判も彼にもたらした。ジャンニの創作姿勢は「ファッションのルールに果敢に挑戦するもの」と評された。また、ジャンニのライバルと目されたジョルジョ・アルマーニのスタイルと比較して「アルマーニの服は妻のために、ヴェルサーチの服は愛人に」とも表現された。 1978年、ジャンニは、家族の協力をもとに自身の会社を立ち上げた。彼の兄サントが社長に、妹のドナテラが副社長となった。ドナテラは特に、創作面におけるジャンニの視野を更に広げる役割を担い、さしずめ会社にとって重要なコンサルタントの様なものだった。それに、ジャンニはドナテラの夫であり、元モデルのポール・ベックをメンズウェアのディレクターとして雇い入れた。 ジャンニによるファッションの革新の一つとして著名なものに、1982年の非常に軽量のチェーンメイルを用いた”Oroton”と名付けられたドレスがある。この素材はデザイナーを代表する素材の一つとして認知されるにいたった。また、ジャンニの手がけるスーツは、彼自身が経験してきた女性服のテーラリングの経験が強く反映されており、イギリスのサヴィル・ロウに始まる男性をより男性性的にみせるスタイルとは、一線を画するものだった。ジャンニは自身のアイデンティティでもあり、古代ギリシャ・ローマなど様々な影響を受けた南イタリアのことを、イタリアにおける南北問題を別として、誇りとしていた。そうしたことは、彼のデザインにおけるモチーフの中にも反映されているとされ、ブランドのロゴであるメデューサの頭、ギリシア雷文などが挙げられる。現代アートもジャンニの重要なインスピレーションであり、彼のグラフィックプリントは、ロイ・リキテンシュタインやアンディ・ウォーホルの影響が指摘される。 1982年、ジャンニは自身のビジネスの拡大として、ジュエリーと、日用品のデザインに乗り出す。日用品とは、ファッションと同じく、非常に豪華なデザインの家具、陶器、そして室内装飾用のテキスタイルであった。もっとも、ジャンニはこうした自社の多分野における創作面のコントロールを自分で常に全て負っていたわけではなかった。1989年にはパリのサンディカに加盟し、” Atelier Versace”の名でオートクチュールの分野に進出する。また、メインラインよりも値段を抑えたディフュージョンライン"Versus"を同じ年にスタートさせる。 この頃になると、ヴェルサーチは特に国際的な著名人との関わりでも有名になっていた。コレクションの際に最前列の席に座る人々や、あるいは広告キャンペーンに採用するといった形で、である。さらに1990年代の初頭からは、いわゆるスーパーモデルブームの火付け役・中心として、その時代のもっとも著名なナオミ・キャンベルやクリスティー・ターリントン、リンダ・エヴァンジェリスタといったモデルたちをコレクションのランウェイと、広告キャンペーンの両方に起用して話題をさらった。 90年代には、ブランドの最も著名なアイコンの一つである鮮やかなプリント生地が次々に登場する。ヴォーグのロゴを様々に配した1991年の"Vogue"や1993年の"Florida"など。特に91年の秋・冬で登場した"Barocco"(バロック模様)は定番として現在でも様々な形で展開されている。 1997年、ジャンニが悲劇的な形で急逝した時には、彼の会社の価値は807万ドルに達し、世界中に130の店舗を有するまでの規模に成長していた。ジャンニの死後は、彼の妹であるドナテラがヘッドデザイナーとしてブランドを運営している。ブランドは彼の名を冠した"Gianni Versace"から"Versace"へと名前を変えて、今に至っている。
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