ファタハとの対立と対イスラエル闘争路線
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「ハマース」の記事における「ファタハとの対立と対イスラエル闘争路線」の解説
「ガザの戦闘 (2007年)」を参照 2007年6月12日にハマースはガザ地区を武力占拠し、2006年の総選挙後に形成されていたファタハとの連立政権は崩壊した。現在に至るまで、ガザ地区はハマースが、ヨルダン川西岸地区はファタハが事実上支配している。評議会ではハマースが過半数を占めているため、ファタハは非常事態宣言を発令することで合法的に政権を維持している。ハマースはハニーヤ内閣が正当政府であるとして、閣僚を任命し自治政府を組織しているが、イランやシリア以外の国際社会はファタハによる政府を承認している。ハマースは連立政権時代に自制していたカッサームロケット砲によるイスラエル領内への攻撃を再開。これに対してイスラエル国防軍は2008年からガザを攻撃した。一時的な停戦の後もイスラエルは規制を緩めず、小規模な衝突が繰り返された。イスラエルは11月5日から封鎖をさらに強化し、国際連合の「イスラエル政府が封鎖を緩和しない限り、支援物資がすぐに底を尽きる」という警告も無視した。6ヶ月間にパレスチナ側は20人が殺害され、イスラエル側の犠牲者は0であった。ハマースの政治指導者ハーリド・マシャアルは、「イスラエルの火器で30人のガザの人々が殺され、封鎖の直接の影響で数百人の患者が死亡した」と主張している。 イスラエルとエジプト政府は休戦延長を模索したが、ハマースは再度の封鎖解除と全ての検問所の開放を条件とし、イスラエルは攻撃停止が先だと主張したため、ハマースは「停戦延長を拒否する」と発表した。休戦期間終了を待たずにロケット砲による攻撃を再開し、イスラエルは攻撃を中止するよう警告を発したが、ハマースはそれを黙殺した。2008年末にイスラエルはロケット砲攻撃の根絶を目的にガザへの空爆を開始した。2009年1月1日に、ハマース創設者でありガザにおける指導者のひとりであったニザール・ラヤーンが、ジャバリーヤ難民キャンプの自宅でイスラエル国防軍の空爆により殺害された。2009年1月15日には、ハマース政府の内相サイード・シヤームがイスラエル国防軍の空爆で殺害された。 イスラエルはガザ地区への攻撃と並行して、病気治療のためイスラエル入国を申請したガザ地区住民に対し内通者(スパイ)になるよう要求するなど、ガザ地区での情報提供者の勧誘を続けている。2009年にハマースは少なくとも17人を内通を理由として処刑したとされる。2010年にはハマース幹部ハサン・ユーセフの息子でキリスト教徒であるムスアブ・ハサン・ユーセフがイスラエルのスパイであったことを告白し、ハマースとイスラム教を批判する手記を出版して反響を呼んだ。 2010年1月20日に軍事部門創設者マフムード・マブフーフがアラブ首長国連邦のドバイのホテルで暗殺された。犯人の姿がホテルの監視カメラに映っており、イギリス、フランス、オーストラリアなどの偽造パスポートを所持して入国したイスラエルのモサド工作員による犯行であると断定された。 2010年8月31日にヨルダン川西岸南部のユダヤ人入植地であるキリアトアルバ近郊の路上で乗用車が襲撃され、イスラエル人4人が射殺され、ハマスの軍事部門カッサーム隊が犯行声明を行った。西岸でイスラエル人4人が殺害されたのは2006年の自爆攻撃以来である。
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