ヒトラーとの別れ
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ヒトラーとの別れ」の解説
詳細は「アドルフ・ヒトラー」を参照 こうした努力にも関わらず戦局の不利は変わらず、ヴェローナ憲章も戦争協力が優先されて正式な憲法制定に漕ぎ着けることは最後まで果たせなかった。1944年4月、ドイツのグラーフェンヴォール練兵場で共和国国防軍の閲兵式を行い、『サン・マルコ』海兵師団の訓練を視察して兵士達から熱烈な歓迎を受けた。視察を終えた後はザルツブルク郊外でヒトラーとの首脳会談に臨み、もう一度対ソ講和を強く勧めたが、ヒトラーは「秘密兵器による勝利」という空想を口にするだけであった。帰国すると6ヶ月近くドイツ軍とRSI軍が踏み止まっていた首都ローマが遂に失陥したとの報告が届き、全国民に向けて喪に服すると共に連合軍への抵抗を呼び掛ける声明を出した。ローマ失陥の翌日にはノルマンディー上陸作戦が開始され、枢軸国の命運は尽きつつあった。 1944年7月20日、再びドイツを訪問してバイエルンで擲弾兵師団「リットリオ」を筆頭とした共和国国防軍4個師団の合同演習を視察した。視察後に16度目となる独伊会談が開かれるラステンブルクに向かうと、その移動中にドイツでヒトラー暗殺・クーデター未遂事件が発生した。ヒトラーが九死に一生を得た暗殺未遂事件の後、外国人で最初に面会を許可され、治療を終えたヒトラー自ら爆破された執務室を案内している。ヒトラーは思いのほか落ち着いており、暗殺の脅威よりもそれから生き残ったことに感銘を受けていた。敗勢から塞ぎ込むことが増えていたヒトラーは、枢軸国の使命がまだ終わってはいないことを確信した様子だった。そのことを意気込んで語るヒトラーに、ムッソリーニは「まさにその通りだ」と同意し、「今日起きた奇跡を考えれば、我々の使命が全うされないことは有り得ないだろう」と語っている。 行われた会談でヒトラーはドイツ国防軍が訓練を行っているRSI軍4個師団を東部戦線に展開するというヴィルヘルム・カイテル元帥の計画を退け、ムッソリーニの提案通りにイタリア戦線に展開することを決定した。帰国の列車に乗るムッソリーニを見送りに来たヒトラーは「貴方はドイツにとって最も高貴な友人だ」と呼び、その両手を硬く握り締めて語りかけた。 「 貴方が頼りにすべき人間なのは分かっている…私が世界の中で持っている最良の、そして恐らく唯一の友人が貴方だという私の言葉を信じて貰いたい。 」 —アドルフ・ヒトラー、1944年7月 この言葉が二人の独裁者にとって最後の会話となった。
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