パースの北および東
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:18 UTC 版)
「カレドニアン鉄道」の記事における「パースの北および東」の解説
カレドニアン鉄道と同じ1845年7月31日には、数社の鉄道が設立認可の法律を制定してもらうことができた。この年は鉄道建設推進の狂乱があり、まるですべての地域が自分たちの路線を有するべきであるかのように思われた。スコティッシュ・セントラル鉄道は上述したとおりであり、スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道(英語版)、アバディーン鉄道(英語版)、ダンディー・アンド・パース鉄道(英語版)も同日に設立認可法案が成立した。 スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道はパースからフォーファー(英語版)までを建設し、パースではスコティッシュ・セントラル鉄道と共同駅を利用した。本線はストラスモアの肥沃な地域を走り、本線に適した場所に既存であった2本の短い路線を継承している。ニュータイル・アンド・クーパー・アンガス鉄道およびニュータイル・アンド・グラミス鉄道である。どちらも、ダンディー・アンド・ニュータイル鉄道(英語版)に付属する、不成功な鉄道であり、石の枕木を使って軌間は4フィート6.5インチ(1,384ミリメートル)であった。これらの2本の路線は改良され、標準軌の複線に直された。フォーファーでは、スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道はアーブロース・アンド・フォーファー鉄道(英語版)と合流していたが、この会社も初期に存在した石を枕木にした鐵道で、こちらの軌間は5フィート6インチ(1,676ミリメートル)であった。スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道は1848年に開業した。 インチチャー・エクスプレスは、カレドニアン鉄道が営業している馬車鉄道であった。そのレールはインチチャー駅(英語版)まで生け垣に沿って走っていた。のちに廃止され、レールは撤去された。 アバディーン鉄道はアーブロース(英語版)の数マイル北西のガスリー(英語版)から北へ向かって走っていた。ここでアーブロース・アンド・フォーファー鉄道と連絡し、この路線の両方のターミナルへと到達できるようになった。この会社はアーブロース・アンド・フォーファー鉄道を借り受ける認可を得ていた。アバディーン鉄道は、アーブロース・アンド・フォーファー鉄道の石枕木を使った線路を改良する費用を過小評価していたかもしれず、自身の本線を建設する費用を使い果たしてしまった。建設は遅れ、アバディーン自体の政治的な問題にも遭遇した。1850年に市街の南限であるフェリーヒル(英語版)まで開通し、1854年にはアバディーン・ギルト・ストリート駅(英語版)まで延長した。またこの路線には、ブリーシン(英語版)とモントローズ(英語版)までの支線もあった。 この初期の段階で、カレドニアン鉄道は自身をスコットランドにおける大規模鉄道網形成者とみなしており、他の多くのスコットランドの鉄道を可能な限り支配しようと取り組み始めた。これは買い取るのではなく、借り受けることによって実施された。このやり方には、当初は支払いが発生しないという利点があり、後に周期的な支払いが発生するだけであった。カレドニアン鉄道はスコティッシュ・セントラル鉄道、スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道、アバディーン鉄道と交渉し、確かにこれらの会社を手中に収めたと考えていたが、スコティッシュ・セントラル鉄道は他の考えを持っていた。かなり後になり、カレドニアン鉄道は周期的な支払いは負担しきれないことに気づいたが、借り受け契約は権限を超越していたとの法的判断により救われた。 ダンディー・アンド・パース鉄道(英語版)は1847年に開通した。この会社はスコティッシュ・セントラル鉄道に買収され、後にスコティッシュ・セントラル鉄道が1865年にカレドニアン鉄道に買収された際にカレドニアン鉄道の手に帰した。 スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道(英語版)はパースからフォーファーまで1848年に開通し、その先アバディーンまでのアクセスを得た。スコティッシュ・ミッドランド・ジャンクション鉄道とアバディーン鉄道は1856年に合併し、スコティッシュ・ノース・イースタン鉄道(英語版)を形成した。この会社はあまり長く独立を保たず、1866年にカレドニアン鉄道に吸収された。この吸収の時点で、スコティッシュ・ノース・イースタン鉄道はグレート・ノース・オブ・スコットランド鉄道とアバディーンにおける直通線を建設することに関わっており、また新しい共同駅としてアバディーン駅(英語版)を建設していた。この路線と駅は1867年に開業した。 カレドニアン鉄道はいまや、当初から望んでいたものを手に入れた。かなりの領域をカバーする大規模な鉄道網を支配することである。これはかなりの費用を要し、議会はますますこの種の独占に対して不快を覚えるようになって、ノース・ブリティッシュ鉄道が抗議した際に、カレドニアン鉄道の北部の鉄道網上での運行権を付与された。さらに悪化させることに、ノース・ブリティッシュ鉄道はテイ橋を建設してダンディーへと1878年に到達し、ダンディー・アンド・アーブロース鉄道の共同所有を求めて1881年から共同所有となった。ノース・ブリティッシュ鉄道は既に、アーブロースからモントローズの北のキンナバー・ジャンクションまでの独立路線を建設しており、1890年にエディンバラのすぐ北でフォース鉄道橋が開通すると、ノース・ブリティッシュ鉄道はいまやアバディーンへの競合ルートを擁するようになった。ロンドンからアバディーンまでの東海岸ルートと西海岸ルートの会社間での競争は、1895年に北への競走となって表れた。 スコティッシュ・ノース・イースタン鉄道やそのほかの路線の買収により、本線から離れた自治体への多くの支線をもたらした。19世紀の終わりにかけて、多くの穴埋めの路線が追加された。ダンディーとフォーファーを直結する路線は1870年にカレドニアン鉄道によって開通し、ブローティー・フェリー(英語版)とフォーファーを結んだ。この路線はダンディーへの通勤輸送を発展させたが、それがなければ閑散線であった。フォーファー・アンド・ブリーシン鉄道(英語版)が本線を代替しうる路線として企画され、1895年に開通したが、単なる閑散支線に留まった。
※この「パースの北および東」の解説は、「カレドニアン鉄道」の解説の一部です。
「パースの北および東」を含む「カレドニアン鉄道」の記事については、「カレドニアン鉄道」の概要を参照ください。
- パースの北および東のページへのリンク