パリのレジスタンス蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:51 UTC 版)
「パリの解放」の記事における「パリのレジスタンス蜂起」の解説
一方パリでは8月15日に、パリ地下鉄、フランス国家憲兵隊、警察が、翌16日には郵便局員がストライキに入った。8月18日にはゼネストがパリ全域の労働者に広がった。8月19日午前7時、パリ市内のレジスタンスが蜂起を開始した。蜂起を主導したのは内地フランス軍(フランス語版、英語版)であり、総兵力は2万人であったが、装備は劣悪であった。 対するパリ防衛司令官コルティッツ大将率いるドイツ軍も2万人の兵力を持っていたが、兵員の大半はパリ市外に出ており、市内にいるのは5~6千人であった。レジスタンスは12の区役所、郵便局などの施設を占拠してトリコロールを掲げ、シテ島のパリ警視庁本部では、警察官がこれに呼応して蜂起したが、午後になると装備に優れたドイツ軍の攻勢が開始され、レジスタンスの拠点は徐々に孤立していった。 コルティッツ大将は、翌日の日の出30分後に鎮圧しようとしていたが、午後7時に中立国スウェーデンのラウル・ノルドリンク(英語版)総領事が死傷者収容のための休戦を提案した。コルティッツ大将は内地フランス軍らレジスタンスは「暴徒」であって、休戦の対象となる「交戦団体」ではないとしたが、戦闘を停止して内地フランス軍を交戦団体扱いし、一部管轄地域を渡すという「諒解」に合意した。休戦期間は当初1時間とされたが、夜には無期限へと変更された。コルティッツ大将はレジスタンスに内部対立があることを知っており、休戦期間を設ければレジスタンスの団結が瓦解すると考えていた。 内地フランス軍も休戦に合意したが、翌8月20日午後には、一部の兵士がゲリラ的戦闘を再開した。コルティッツ大将はノルドリンク総領事を通じて「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」と警告した。ヒトラーもパリの被害を考慮せず、市の内外で戦うべきであると西方軍集団司令官ヴァルター・モーデル元帥に命令した。内地フランス軍は、連合軍の早期到着が必要であると考え、ガロワ少佐とノルドリンクの弟ロルフを中心とする2つの連絡班をアメリカ軍前線に派遣した。 その間に連合軍はパリ周辺の攻略を行い、8月21日にはパリ南方にあるルビーエ(英語版)、ムラン、モントロー=シュル=ル=ジャルド(英語版)へ向かい、最終的にパリ東方にあるサン(英語版)を占領した。そのためモーデル元帥はパリ防衛が不可能であると考え、パリの東と北で防衛する計画を具申した。しかしヒトラーはこれを退け、パリの東ではなくパリで防戦するよう命令した。
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