パスカルの賭けの類例
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「パスカルの賭け」の記事における「パスカルの賭けの類例」の解説
ソフィストのプロタゴラスは神々について不可知論的な立場をとっていたが、それにもかかわらず神々を崇拝し続けた。これは「賭け」の初期版と考えられている。 エウリピデスの有名な悲劇「バッコスの信女」の中で、カドモスはパスカルの賭けの初期版について述べている。この悲劇の最後には、カドモスが言及した神ディオニュソスが現れ、このように考えたカドモスを罰していることは注目に値する。エウリピデスは、パスカルの賭けの初期版について明らかにこの悲劇の中で考え、それを却下した。 禁欲的な哲学者でローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは、『瞑想』の第二書で同様の感情を表現しつつ、次のように述べている。「今この瞬間にも、あなたが人生から離れる可能性があるので、すべての行為を規制し、それに応じて考えなさい。しかし、もし神々がいるならば、人生から離れることは恐れることではない。神々はあなたを悪に巻き込むことはないからである」。 サンスクリット語の古典「サーラサムチャヤ(Sārasamuccaya)」の中で、ヴァラルチはパスカルの賭けと同様の議論をしている。 ムスリムのイマームであるジャファル・アル・サディクは、彼の有名な「ミロバランの果実の伝統」を含め、何度かの機会に異なる形でこの賭けのバリエーションを提案したと記されている。シーイのハディースの本『アルカフィ』で、サディクは無神論者に「もしあなたの言うことが正しいなら――そしてそれが正しくないなら――私たちは両方とも成功することになるでしょう。しかし私が言っていることが正しいなら――そしてそれは――私は成功し、あなたは滅ぼされることになるでしょう」。 この議論の例としては、イスラムのカラームの伝統の中で、イマーム・アルハラマイン・アルジュワニ(478/1085年)が彼の「Kitab al-irshad ila-qawati al-adilla fi usul al-i'tiqad」(信念の原則のための決定的証拠へのガイド)の中で論じている。 キリスト教の弁明者であるシッカのアルノビウス(Arnobius of Sicca)(330年)は、彼の著書『異教徒に対する反論』の中で、この議論の初期のバージョンについて述べている。 パスカルの賭けは、人々が「より安全な賭けを選ぶべきだ」とパスカル以外の人に言及されることが多い。パスカルは、人々が単に信じることを選ぶことができるのではなく、彼らの行動を通して信仰を育むことができると述べている[要出典]。 無神論者の賭けは、哲学者マイケル・マーティンによって普及し、彼の著書『無神論』(1990年)で発表された。無神論者の賭けは、パスカルの賭けに対抗する無神論的な賭けの議論である[要出典]。 2008年に出版された哲学書『良い決断をしていつも正しくある方法』では、パスカルの賭けの世俗的な改訂版を紹介している。「価値と美徳を追求することによって何の害があるのか?価値があるならば、私たちは得るものがすべてあるが、価値がないならば、私たちは何も失っていない....。したがって、私たちは価値を追求すべきである」。 ロコのバジリスクは、それを存在させるのを助けるために失敗したすべての人を罰する仮想的な未来の超知能のことである。 2014年の記事で、哲学者のジャスティン・P・マクブレイヤーは、神の存在については不可知論者のままであるべきだが、それにもかかわらず、神を信じることで現世にもたらされる善があるために信じるべきだと主張した。「更新された賭けの要旨は、神の存在の有無にかかわらず、神論者は非神論者よりも優れているということである」。 唯円の歎異抄の第二条には、浄土真宗の開祖親鸞が「(実は念仏が間違った信仰で)念仏をしたために地獄に落ちるという可能性が恐くないのか?」という問いに対して、「念仏が成仏の原因となるか地獄に堕ちる原因となるかは、私の考えが及ぶ所ではない」と答えた上で、「自分が念仏以外の修行によって成仏できるなら念仏を選んだことを後悔するだろうが、自分は念仏以外のいかなる修行を以てしても成仏できず、地獄に堕ちる事が確実な凡夫である。ゆえに、念仏で地獄に落ちても後悔しないだろう」と述べている。
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