パイク郡判事執行役
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「ポール・パットン」の記事における「パイク郡判事執行役」の解説
1981年、パットンはパイク郡の郡判事執行役の選挙に出馬した。民主党予備選挙で公認を得る過程で、現職のウェイン・ラザフォードを191,252票対49,000票で破った。本選挙では共和党の候補者ジム・ポリーに対して、総投票数の75%以上を獲得して当選した。 パットンはその当選から6か月以内に、郡内ではびこっていたゴミの不法投棄と戦うために、州内初の強制的ゴミ収集計画を郡全体で始めた。この計画でパットンは州全体から注目された。1985年にパットンが再選を求めたとき、民主党予備選挙では再度ラザフォードと対戦した。ラザフォードはゴミ収集計画を取り上げ、当選したらそれを廃止すると公約した。幾つかの郡住人はゴミ収集のための強制費用に不満だったが、合法的なゴミ捨て場が減ってきていたので、多くの住民はゴミ収集計画の恩恵を認めるようになっていた。ラザフォードの姿勢はかえって逆効果になった可能性がある。パットンは予備選挙に再度勝利し、本選挙でも当選した。しかしどちらの場合も1981年の選挙よりかなり少ない票差になっていた(予備選挙では2,524票差、本選挙では3,916票差)。 パットンの2期目は石油リサイクル計画を開始し、デイケアセンターにおける母子家庭の母に対する事業計画を確立した。新しい監獄の建設と、500万ドルをかけた郡庁舎の改修を監督した。郡では初の製造工場を誘致し、地区倉庫から市民に砂利、配水管、橋板を分け与える慣習を止めさせた。その他の判事執行役の優先事項の中には、地方道の建設と施設の再生があった。 1987年に副知事選挙に出馬した。混戦だった予備選挙では、当選したブレレトン・ジョーンズ(189,058票)、2位の検事総長デイビッド・L・アームストロング(147,718票)に次いで3位(130,713票)だったが、州上院議員のデイビッド・ボスウェルや公衆指導監督官アリス・マクドナルドよりは上位になった。その時点まででケンタッキー州でも最も金のかかる予備選挙となり、パットンはその個人資産から200万ドル以上を遣ったが、300万ドル以上をつぎ込んだジョーンズの方が上回っていた。1979年の副知事候補マーサ・レイン・コリンズが遣ったのは14万ドル、1983年のスティーブ・ベッシャーは25万ドルだったので、如何に金が必要だったかが分かる。 パットンは落選した後にパイク郡に戻った。1989年、判事執行役に3選された。このときは3人が立った予備選挙で70パーセント以上を得票し、本選挙でも3対1に近い大差で当選した。パットンは即座に1991年の副知事選挙に向けて準備を始めた。選挙戦の初期では、パットンの炭坑では坑夫達が南部労働者同盟に入っていたので、アメリカ鉱業労働者連盟がパットンをうるさく攻撃した。スキッパー・マーティンがパットンをトラック運転手組合の指導者に紹介し、パットンは彼らと協力してパイク郡の労働者を組合に入れた。ケルシー・フレンドとも協力して、経済的に落ち込んだ田園部にある会社を財政的に支援するケンタッキー州田園経済開発法を通した。
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