パイシスのデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 20:20 UTC 版)
1974年末、アルファ&アソシエイツ(アルファ・レコードの前身の音楽制作会社)で 村井邦彦社長と、ミュージカル"HAIR"のプロデューサーでもあった川添象郎のプロデュースで、武蔵野音楽大学出身のジャズ系アーティスト寺門由紀子とデュエット・グループ「パイシス」を結成。所属事務所は田辺エージェンシーだった。 1975年3月、パイシスとして東芝EMIレコードからデビュー。 ファースト・シングルは「悲しみのティ・パーティ/アニマ・ミア」。カップリングの「アニマ・ミア」は、イタリアのソフトロック・グループ「Cugini di Campagna」のANIMA MIAのカバー曲。当初はA面を予定されていたので、アレンジ&キーボードに深町純、ギターに高中正義、ドラムスは原田祐臣という顔ぶれ。この時のクレジットは本名の長岡和彦になっている。 1976年4月、セカンド・シングル「恋人と来ないで/陽だまり」をリリース。 A面の作詞作曲は荒井由実、アレンジは松任谷正隆。コーラスにはハイ・ファイ・セットが参加。
※この「パイシスのデビュー」の解説は、「ポール岡田」の解説の一部です。
「パイシスのデビュー」を含む「ポール岡田」の記事については、「ポール岡田」の概要を参照ください。
- パイシスのデビューのページへのリンク