ノルウェーへの帰還、講堂壁画(1909年5月-1916年)
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「エドヴァルド・ムンク」の記事における「ノルウェーへの帰還、講堂壁画(1909年5月-1916年)」の解説
ムンクは1909年に退院すると、コペンハーゲンからノルウェーに戻りクラーゲリョーの小さな町に住み始めた。1910年11月にはオスロ・フィヨルドの東岸ヴィトステーン(英語版)に土地を買って、ここも制作の拠点に加えた。1913年にはさらにその南、モス(英語版)近郊の建物を借りてアトリエとした。イェンス・ティース、ヤッペ・ニルセンら10人余りの限られた友人とのみ付き合い、彼らの肖像画を描き、アトリエに大事に置いていた。ムンクのアトリエを訪れた人は、彼が作品に「荒療治」を施すのを目にした。これは、作品をあえて野外に放置し、風雨や日光にさらされたり犬が引っかいたりするのに任せ、色彩が「落ち着く」まで待つという独特の方法であった。逆に、絵にワニスをかけて保護することに対しては、絵の呼吸を妨げるとして反対した。 ムンクは親類から勧められて、クリスチャニア大学講堂壁画コンテストに応募するための下絵を描き始めた。正面の大壁に『太陽』、その向かい側に『人間の山』、左右の横長の壁に『歴史』と『アルマ・マーテル(母校)』を配する構想を提出し、1911年のコンテストでは第1位を得たが大学当局に拒絶された。しかしその後、ムンク支持の運動が起き、1914年に大学学部長会がムンク案の採用を決議した。規格外の大きなキャンバスであったことから完成までに7年を要し、上の方は脚立に乗って作業するなど、肉体的にも苦闘を強いられた作品であった。その間、大学当局は受入れをめぐって煮え切らない態度を続けたり値切ろうとしたりして、ムンクはいらだちを募らせた。 この時期、ムンクは『労働者とその子』(1907年-08年)『左官屋と機械工』(1908年)『木こり』(1913年)『雪かき人夫(雪の中の労働者)』(1913年-14年)『家路につく労働者』(1913年-15年)などの200点にのぼる「労働者シリーズ」に取り組んだ。また『クラーゲリョーの冬』(1912年)のような風景画も制作した。1912年ケルンの分離派(ゾンダーブント(英語版))展の招待作家となり、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンと並んで特別展示室を与えられた。ムンクはそれ以前から、マックス・ベックマン、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、オットー・ミュラーといったドイツ表現主義の画家たちに大きな影響を及ぼしていたが、この頃ドイツでのムンクの高い評価が確立した。 しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツとの関係が深いムンクは、反ドイツ的なノルウェーの若者から冷ややかな視線を送られるようになった。ノルウェー政府は中立を称し両陣営に軍需品を供給して金儲けを図るが、ドイツの潜水艦に軍需品を運ぶ貨物船をイギリスから狙い撃ちされ、商船員の命を失うことになった。ムンクはノルウェー美術展のポスターを依頼された際、こうした政府の態度を批判した『中立』という作品を提出した。戦争中の1916年ようやくクリスチャニア大学の講堂壁画が完成し除幕式を迎えた。 『黄色い丸太』1912年。油彩、キャンバス、129.5 × 159.5 cm。ムンク美術館。 『家路につく労働者』1913-15年。227 × 201 cm。ムンク美術館。 『太陽』1911-16年。油彩、455 × 780 cm。現オスロ大学講堂壁画。 『歴史』1916年。現オスロ大学講堂壁画。
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