ニュー東映とアクション映画
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「岡田茂 (東映)」の記事における「ニュー東映とアクション映画」の解説
1961年、東映東京撮影所の所長に着任し、ニュー東映の量産体制を担うべく、深作欣二ら助監督を監督へ昇格。千葉真一が初主演で深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』は、日活の『渡り鳥シリーズ』をマネしろと製作されたものだが、それでも物語はスピーディーかつドライな独自なものに仕上げられた。同年に千葉・深作コンビの『ファンキーハットの快男児シリーズ』は『風来坊探偵シリーズ』より現代的な作品になっており、高倉健・鶴田浩二らもニュー東映の“現代アクション路線”に出演していた。岡田は器械体操で使用される器具を次々東京撮影所に設置し、千葉へ撮影の合間にトレーニングするよう指示していた。千葉と深作は東映の外に出て、1966年の日本台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』でもコンビを組んでいるが、これらはテレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年、TBS)の先駆けともいえる作品となっている。深作の1962年作品『誇り高き挑戦』は各方面から賞賛されたが、お客が入らず、岡田が深作に「駄目や、全然違うじゃないか。お前、ジャーナリズムとか批評家なんかに褒められて、いい気になったらあかんぞ」「お前、もっとドンパチやれ。ドンパチやらないからいけないんだ。『ギャング対Gメン』、これをやれ」と同作を撮らせた。岡田は当時テレビで日本でも人気があった「アンタッチャブル」でいけ、と指示を出し、これを脚本の村尾昭が馬鹿丁寧にパクり、岡田は「これは面白い」と褒めたが、なんぼなんでもそっくり過ぎな映画になっている。しかし三島由紀夫は何故かこの作品を褒めたという。 『網走番外地』(1965年)は、元々三國連太郎が、岡田が手がけた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”として、岡田に企画を提出したのが始まり。 詳細は「網走番外地 」を参照 大映のアクション時代劇を観た岡田は 吹き替え・スタントマンの重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し五社協定で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は1962年、大映で市川雷蔵主演で『忍びの者』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は1967年フリーとなる。
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