ナチ・ホロコースト
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1995年5月、スイス大統領はホロコースト期間中にスイスがユダヤ人難民の入国を拒絶したことを公式に謝罪した。これとほぼ同時に、次の問題が浮上した。スイス銀行がホロコースト期のユダヤ人口座数十億ドル相当を保持したままであることが明らかになったというものである。同年12月、世界ユダヤ人会議はアルフォンソ・ダマト上院議員と手を組んだ。ホワイトウォーター疑惑の公聴会が進行中だったビル・クリントン大統領がダマトと和解して支持を与え始め、上は連邦政府の11機関と上下両院から、下は全米各州の州政府や自治体まで、超党派の圧力がスイスへ向けられた。 1996年4月、休眠口座に関する上院公聴会が開かれた。調査員6人、委員長にFRBのポール・ボルカーを据えた「有識者による独立委員会」は、5月の「理解覚書」で正式に任命された。12月にはスイス政府が「専門家による独立委員会」を任命し、金取引の調査にあたらせた。しかし、両委員会が動き出す前に世界ユダヤ人会議は金銭による和解へ向けてスイスに圧力をかけ始めた。10月初めにエドワード・フェイガンらが200億ドルを求める訴えを起こした。数週間後に協力者を集めてもう一度集団訴訟を起こした。翌年1月には正統派ユダヤ人コミュニティー世界会議が訴訟を先導した。3つの訴状はすべてブルックリン地方裁判所に提出、コーマン判事に統合整理された。こうした法的手段による攻撃にとどまらず、世界ユダヤ人会議はニューヨーク州とニューヨーク市の会計監査員に接触して、1996年2月にスイスの銀行へ経済制裁措置を警告する書簡を両人に送らせた。1998年6月、スイス銀行は最終和解案として6億ドルを提示したが、昨年末に世界ユダヤ人会議のブロンフマンは30億ドル以上を要求していた。1998年7月に先の会計監査人らが制裁強化を持ち出して脅迫すると、8月になってコーマン判事の調停に臨み、スイスは12億5000万ドルの支払いに同意した。 1999年12月、ボルカーの「有識者による独立委員会」が『スイスの銀行におけるナチ迫害犠牲者の休眠口座に関する報告』を出した。この報告は次のように述べる。1933-1945年の銀行記録すべてを調べることはできなかったが、60%という口座記録の回復率は、特にスイス法が10年以上の記録保管を義務づけていない状況では驚異的だった。報告によると、54000の口座が「ナチ迫害の犠牲者と関係する」多少の可能性がある。口座名義の公表に値するものはその約半数で、このうち1万口座は1億7000万から2億6000万ドルに相当する。残る口座は時価の算定ができなかった。 この報告には重要な付録が存在し、当時のユダヤ人が資産を避難させる「望ましい行き先」がリスト化されている。アメリカとスイスが3位以下に大差をつける候補であった。そこで、アメリカの銀行ではホロコースト期の休眠口座がどうなっていたのかが問題になる。この点、Seymour J. Rubin氏は次のように結論した。合衆国は、国内にある相続者のない資産を認定するためにごく限られた施策しかとらず、支出可能としたのは(中略)わずか50万ドルである。スイスの銀行がボルカー委員会の調査以前の段階ですでに3200万ドル分を認定していたのとは対照的だった。
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