デビュー - 大学進学
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1968年4月、親からの説得と、ぎりぎりまで迷ったが漫画だけの人間になりたくないと、徳島大学教育学部(現・総合科学部)美術科に入学した。漫画家デビューをめざしていたため受験勉強はほとんどしていなかったが、漫画制作で培われた計画性を生かして、得意な文章記述が多い倫理社会で得点し、苦手な数学や物理学を懸命に勉強して合格した。大学では学業と平行して『COM』等への投稿を続ける。 1969年、東京に行った際に、手塚治虫のアシスタントをしていた友人の投稿作品を臨時で手伝うが、そのとき偶然に初めて会った手塚に誘われ、映画『王女メディア』を友人と共に見る。『COM』の縁もあり、手塚治虫から『週刊少女コミック』の編集者、山本順也を紹介される。学生運動に参加して考えるため1年間漫画を描くのを休み、その間の対話と模索で運動ではなく漫画で革命を起こそうと決意する。漫画再開後に、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と言い、『週刊少女コミック』で描くように勧められる。徳島県にいて小学館以外に講談社、集英社の各社の依頼を全て受けてしまい、オーバーワークでパンクする。状態を知った山本編集長に整理のため上京するよう言われ従い、神保町の旅館で3社と合同しての話し合いで小学館の仕事を選択した。看板漫画家として、講談社には里中満智子、集英社には西谷祥子がいたため、新興の小学館であればどうにかなるだろうと考え小学館を選んだ。人生初の「缶詰」状態で、どうにか描き終えた。これがきっかけで、徳島市では漫画家の活動は無理だと感じ、東京行きを決意する。料理もできない娘の一人暮らしに母は当初反対したが、父は最後は理解を示し、東京へ向かう列車内で握手をして見送った。
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