デビュー - クラシック二冠
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「コダマ (競走馬)」の記事における「デビュー - クラシック二冠」の解説
1959年9月20日、京都開催の新馬戦でデビュー。栗田勝を鞍上に、先行策から直線で鞭を使われることなく2馬身半差で勝利した。この内容を見た武田は、伊藤由五郎の息子・英夫と協議し、翌年春の日本ダービーを見据えたローテーションを企画した。2戦目の宝塚3歳ステークスも追われることなく、同じブッフラー産駒のヘリオス以下に5馬身差で勝利。シーズン最後の出走となった関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスでは圧倒的な1番人気に推されると、先行2番手から直線で他馬を突き放し、2馬身差で優勝した。当年3戦3勝の成績を挙げたが、最優秀3歳牡馬には関東の朝日盃3歳ステークスを含む4戦4勝の成績を挙げたマツカゼオーが選出された。 休養の後、春のクラシック戦線に備えて東上し、3月19日にオープン競走で復帰。栗田が正月の競馬で落馬骨折していたことから、鞍上にはコダマを預けていた中村広の兄で、武田と親しかった中村一雄の弟子である渡辺正人を迎えた。この競走も2馬身差で逃げ切ると、続くスプリングステークスで連勝を6まで伸ばしていたマツカゼオーと対戦。初めて2番人気に落ちたが、最下位に沈んだマツカゼオーを尻目に4馬身差で逃げ切り、名実共にクラシックに向けての本命馬となった。4月17日に迎えた三冠初戦・皐月賞では雨後の重馬場のなか向正面で先頭に立つと、そのままマツカゼオーに6馬身差をつけて優勝を果たした。なお、騎乗した渡辺は前々年のタイセイホープ、前年のウイルディールに続く、史上初の皐月賞(同一クラシック競走)三連覇を達成した。 5月29日の日本ダービーに向けてコダマの人気は一層の高まりを見せ、1951年に10戦無敗のまま死んだトキノミノルの再来とも謳われ、日ごろ競馬を見ない人々にまでその名が伝えられた。しかし人気の高まりとは裏腹に、コダマは5月10日の調教中に蹄鉄が外れ、左前脚の不安のために予定していた前哨戦を使えず、3日間調教を休むなど順調さを欠いていた。ダービー直前の最終調教では左前脚の蹄鉄が再び外れ、伊藤由五郎はありとあらゆる神社に願をかけ、大阪から東京競馬場に応援に赴く英夫に対しては験を担いで「第一こだまの、一号車の一番前に乗るように」と命じたという。 日本ダービー当日は約7万人の観客が集まり、4億円以上を売上げ、いずれも新記録を大幅に更新した。こうしたなか、コダマは怪我から復帰した栗田を背に、単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持された。レースでは道中3番手を進むと、最後の直線で先頭に立ったヤマニンモアーを楽に交わし、1馬身3/4差を付けて優勝。無敗でのクラシック二冠はトキノミノル以来9年ぶり2頭目、また当時、東西所属馬の勢力が東高西低とされていたなか、関西馬のダービー優勝はボストニアン以来7年ぶりの出来事であった。しかし快挙を遂げたコダマに対し、武田は競走後の手記で次のような言葉を残した。 「今後コダマにかけられるファンの期待は大きい。実質が名声に相応しければ問題はないが、ややもすればマスコミを通じて名声が実質を上まわる。そしてもし、実質が名声にこたえ得なければその罪は関係者に負わされる。私はそれを恐れる」
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