チリ・クーデターとピノチェト時代
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「チリの歴史」の記事における「チリ・クーデターとピノチェト時代」の解説
詳細は「チリ・クーデター」を参照 こうした社会的混乱の中で、アジェンデは軍への人事介入を行い、とりわけ空軍が反発していた。1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは自殺し、チリの社会主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。 このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊や秘密警察「DINA(英語版)」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約3万人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られた。国民の10分の1に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の4分の1のGNPが全くなくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、1960年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年~1982年のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年~1980年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はアジェンデ時代の45%から30%にまで低下した。 詳細は「チリの民政移管(スペイン語版、英語版)」を参照 しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙(en)で敗北すると、1989年12月に行われた総選挙(en)で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシアを構成する中道のキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが、ピノチェト派の候補に僅差で勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。
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