チャタル・ヒュユクの建築遺構
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「チャタル・ヒュユク」の記事における「チャタル・ヒュユクの建築遺構」の解説
チャタル・ヒュユクの集落は、ゴミ捨て場を持つ家々によって構成されていた。いくつかの家には「居間」よりも大きな部屋があったが、これが公共的な物であったのか、住民の間では職業分化ないし分業が行われていたのかははっきりしない。このような広い部屋は、何らかの儀式など特別な目的で使用されたと思われるものの、今ひとつはっきりしない。チャタル・ヒュユクの本体である東側の遺丘は、最大で総人口10,000人に達したと推測される。もっとも、チャタル・ヒュユクの集落の数千年に及ぶ歴史の中で人口は変化しており、平均的には5,000人から8,000人ほどであったと考えられる。チャタル・ヒュユクの住民は、互いに隙間なくすし詰めのようにくっついた、一部屋が平均25m2程度の土レンガでできた集合家屋に暮らしていたと思われる。通路や窓のようなものは存在せず、蜂の巣のように密集して寄り集まっている家々の天井板の穴から入り、木製のはしごを使って外へ出る仕組みになっていた。つまり、チャタル・ヒュユクの家の扉は、現在の家と違って屋上に付いていたことになる。このような変わった家の構造ができた理由ははっきりしないが、一説にはライオンなどの猛獣や外敵の侵入を防ぐための工夫ではないかと考えられている。このように窓が一切なく、出入口が屋上にしかない建物であれば、住民たちは非常時に屋外のはしごを取り外すだけで、猛獣や外敵の侵入を簡単に防ぐことができたのである。 つまり家の屋上が通路の代わりになっていた。屋根穴は換気口の役割も果たしていた。新鮮な空気を入れると共に暖炉やかまどの煙を排気する孔でもあった。それぞれの家は内面に漆喰を塗り、正方形の柱を使ったはしごと急な階段を設けていたという特徴がある。そしてそのような出入口は、たいてい暖炉や炉が設けられている部屋の南側の壁に沿って造られている。それぞれの家の主だった部屋は料理をしたり日常生活を営むために使われている。主だった部屋には壁に沿って座ったり、仕事をしたり、眠ったりするための基壇が設けられている。そういった基壇は壁の内側に設けられて、丁寧に漆喰が塗られ、表面を滑らかに仕上げている。実際建物の壁や床は白色の細かい粘土(漆喰)で何層にも塗りこめられ、120層にも及ぶ建物さえ発見されている。このような上塗りは同一の生活面から検出された建物にほぼ同じ回数の上塗りがされていることから、おそらく毎年のように繰り返されたと考えられている。 一方、補助的に設けられた部屋は、食料、財産の貯蔵、保管に用いられたと推定され、主たる部屋からの天井の低い通路でつなげられている。それぞれの部屋は几帳面なくらいきれいな状態であって、考古学者たちは、建物の中にゴミを発見することができないくらいであった。チャタル・ヒュユクの住居の外側に著しい量の木灰や下水溝や調理に伴うゴミの山が発見された。ゴミの山は埋め立てられて「広場」として使われ、天気のいいときには、日常的な活動が屋根の上やそのようなゴミや後述するような建物の瓦礫で埋め立てられた「広場」で行なわれた。後の時代になると巨大な共同の炉が屋根の上に設けられるようになった。時間が経過するに伴い、家屋は部分的に取り壊しが行なわれ、荒石と灰の上に建て替えが行なわれた。壊された家の瓦礫はマウンド状になっていき、その上も「広場」として使われた。それがチャタル・ヒュユクでは、18層にわたって行われたことが確認されている。
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