チャタム伯爵内閣の第一大蔵卿
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「オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)」の記事における「チャタム伯爵内閣の第一大蔵卿」の解説
7月にはロッキンガム侯爵内閣が総辞職、大ピットは三たび組閣を試みた。今度は組閣に成功したが、大ピットはチャタム伯爵への叙爵と王璽尚書就任を選択したため盟友の顰蹙を買った。グラフトンは第一大蔵卿として入閣したが、渋々就任したにすぎなかったとされ、自身が議長を務める大蔵卿委員会の委員任命もチャタム伯爵に任せた。この時に首相になったとも考えられるが、組閣の大命を受けていたのはチャタム伯爵であり、また実質的に内閣を主導したのもチャタム伯爵であったため、この内閣は一般にはチャタム伯爵内閣と考えられている。 1763年に一時グラフトン公爵の支持を受けたジョン・ウィルクスは1766年11月にロンドンを訪れ、グラフトンに手紙を書いて恩赦を求めたが、グラフトンはチャタム伯爵の助言を容れて手紙を無視、ウィルクスが12月にパリに戻ったのち再度手紙を書くもやはり無視されている。 しかし1767年からチャタム伯爵が病気になったため、グラフトン公爵に内閣指導権を委ねるようになった。この年、財務大臣のチャールズ・タウンゼンドは閣議での合意を経たずに米州植民地への徴税案を発表した。この徴税案とはガラス、塗料、紙、茶に輸入関税をかけることであり、「タウンゼンド諸法」と呼ばれた。グラフトン公爵はチャタム伯爵に助言と議会への出席を求めたが、1767年5月31日に2人が会談した結論は徴税案を続けることと、北部担当国務大臣のヘンリー・シーモア・コンウェイに庶民院対策を任せることだった。 チャタム伯爵の病状が悪化する中、グラフトン公爵は辞任か、政務の責任を負うかの選択を余儀なくされたが、このときに後者を選んだため、英国人名事典ではチャタム伯爵内閣が1767年9月より「グラフトン公爵内閣」と呼ばれるようになったとしている。同9月にタウンゼンドが死去するとノース卿フレデリック・ノースが後任として財務大臣に就任、12月にはそれまでチャタム伯爵に反対されていた対米強硬派ベッドフォード派(英語版)の入閣(具体的には第2代ゴア伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアが枢密院議長に就任した)が決定した。 対植民地強硬派閣僚が増えていく中、対植民地政策で穏健なチャタム伯爵は内閣で孤立し、1768年10月に辞職に追い込まれた。グラフトン公も政策面ではチャタム伯爵に近い立場だったが、彼は政権に残留し、代わって組閣の大命を受けた。
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