チャタヌーガ及びノックスビル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 01:40 UTC 版)
「テネシー軍」の記事における「チャタヌーガ及びノックスビル」の解説
詳細は「第三次チャタヌーガの戦い」および「ノックスビル方面作戦」を参照 ビックスバーグの占領後、テネシー軍は「そこでしばらくゆっくりしていた」。しかし、やがて軍には新たな役割が与えられ、1863年11月には、チャタヌーガの戦いにおいて、テネシー軍を含む複数の軍から構成される北軍が勝利した。その経緯は以下の通りであった。1863年9月後半、ブラクストン・ブラッグが率いる南軍テネシー軍が、チカマウガの戦いでウィリアム・ローズクランズのカンバーランド軍に勝利した。ローズクランズはチャタヌーガまで後退したが、ブラッグはこれを包囲した。この危機に対応するため、ワシントンはビックスバーグの勝者であるグラントを、新設したミシシッピ方面軍(Military Division of the Mississippi)の司令官に任命し、チャタヌーガへ進出してそこの全軍の指揮してブラッグを打ち破るように命じた。カンバーランド軍に関しては、ローズクランズを司令官に留めるか、あるいは隷下の軍団長であるジョージ・ヘンリー・トーマスを昇進させるか、陸軍省はその判断をグラントに委ねたが、グラントはトーマスを選んだ。チャタヌーガにおけるグラントの兵力は3つの軍の部隊から構成されていた。すなわち、トーマスのカンバーランド軍の35,000人、ジョセフ・フッカーが指揮するポトマック軍の分遣隊20,000人(2個軍団)、及びテネシー軍分遣隊(2個軍団)の17,000人であった。 テネシー軍の分遣隊を率いてチャタヌーガへ向かったのはシャーマンであった。軍はビックスバーグからミシシッピ川を遡り、メンフィスから東へと向かった。この進軍が開始された時点では、シャーマンは軍団長の地位にあったが、それが終ったときにはグラントの後任として「テネシー軍管区およびテネシー軍司令官」となっていた。シャーマンは彼の第15軍団の大部分(軍団長代理フランシス・プレストン・ブレア・ジュニア少将)と第17軍団の第2師団(John E. Smith准将)を引き連れて行った。シャーマンの軍の到着により、グラントはブラッグの包囲戦に対して攻勢に出ることができた。グラントは、シャーマンにミッショナリーリッジの北の端でブラッグの軍の右横腹を攻撃する任務を与えた。使用兵力は、率いてきた4個師団中3個師団といくらかの追加部隊で、北軍の攻撃の主力となることが意図されていた。しかし、11月25日のミッショナリー・リッジの戦いでは、シャーマンの攻撃は何の牽引力にもならず、トーマスのカンバーランド軍がミッショナリーリッジの中腹まで直接攻撃をかけ、南軍の前線を打ち破った。この状況では、テネシー軍はカンバーランド軍の二次的役割を果たすに留まった。 チャタヌーガの戦いが終わって直ぐに、グラントはシャーマンを第15軍団の一部も含む混成部隊の司令官に命じ、ノックスビルで南軍に包囲されているアンブローズ・バーンサイドの救援に向かわせた。シャーマンの接近を知った南軍は、ノックスビルの包囲を解いたため、シャーマンは第15軍団の兵士と共にチャタヌーガへと引き返した。後に、シャーマンは、この危機に際して第15軍団はメンフィスからチャタヌーガまで330マイル行軍し、さらにチャタヌーガからノックスビルへの往復230マイルの行軍を行ったと計算している。
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