チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝
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「モンゴルのインド侵攻」の記事における「チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝」の解説
ツシャー(Tushar)によると、何百何千というモンゴル軍が侵入してきたというが、その数は中央アジアや中東にいたモンゴル騎兵の全軍に近い、およそ150,000の兵力であった。 そこで名前が挙がっているモンゴルの将軍の数は、この遠征に加わった兵の総数の指標となる。恐らくこうした将軍は10,000人を一単位とするトゥメンをそれぞれ率いていたからである。 こうした侵略はチンギス・カンの子孫やモンゴルの将軍たちによって率いられており、その軍勢の規模は常に騎兵10,000〜30,000の間であったが、デリーの年代記では100,000〜200,000の騎兵と数字が誇張されている。 1260年代にモンゴル帝国で内戦(帝位継承戦争)が勃発すると、オゴデイ家のカイドゥは混迷する中央アジアを平定しカーンの主権の及ばない独自の王国(カイドゥ・ウルス)を建設した。これ以後、カイドゥ・ウルスに吸収される形となったチャガタイ家の王族、ドゥアがインド方面の指導者となった。ドゥアはアフガニスタンへと攻勢を強め、インドへとモンゴルの支配を広げようと試みた。チャガタイの曾孫である アブドゥッラーの知事ネグダリ(Negudari)は1292年軍勢を率いてパンジャーブに侵攻したが、先発したウルグー(Ulghu)指揮下の軍勢はハルジー朝のスルターンに敗れ捕虜となってしまった。4000のモンゴルの先発隊の捕虜はイスラームに改宗し、「新たなムスリム」としてデリーに住まわせた。 彼らの住んだ郊外はその名にふさわしくマグホールプラ(Mughalpura)と名付けられた。1296年から1297年にかけてチャガタイ軍は何度もデリー・スルターン朝に打ち破られた。 その後もモンゴルは繰り返し北インドに侵入した。 少なくとも二度、大軍で押し寄せてきた。 その両軍は1297年ジャランダルで合流したが、ザファー・カーン(英語: Zafar Khan)に打ち破られた。 1298年のモンゴルの侵入の際は、テュルクとモンゴルの混成軍がラージプートの諸王と戦った。しかしモンゴル軍はテュルクの将軍と戦利品の分配をめぐって対立し、彼の兄弟を暗殺してしまった。モンゴル軍の妻子は残酷に扱われ、彼らはラージプートの砦へ逃げ込んだ。[要出典]この年モンゴル軍はまたアラー・ウッディーン・ハルジーと再び対立する動きを見せ、シンドに侵入しシウィスタン(Siwistan)砦を攻略した。モンゴル軍はサルディ指揮下で再び攻勢に出て、シーリー(Siri)砦を落とした。不敗の名将ザファー・カーンはこの軍勢を苦も無く打ち破り、砦を再奪取して2,000のモンゴル兵の捕虜をアラー・ウッディーン・ハルジーの前へと引き出した。 まもなく、カイドゥがカイシャン率いる元軍との戦いの中で亡くなったため、ドゥアは「カイドゥ・ウルス」を事実上乗っ取った上で「チャガタイ・ウルス」を復興し、大元ウルスとの和平を模索した。1304年ごろにはドゥアが派遣した使者が大元ウルスのオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)に臣従を表明し、約半世紀続いた大元ウルスと「カイドゥ・ウルス」との対立が終わった。その直後、彼はモンゴルの一致団結したインド侵攻を提案したが、その遠征が実現することはなかった。
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