チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝とは? わかりやすく解説

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チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 03:49 UTC 版)

モンゴルのインド侵攻」の記事における「チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝」の解説

ツシャー(Tushar)によると、何百何千というモンゴル軍侵入してきたというが、その数は中央アジア中東にいたモンゴル騎兵全軍に近い、およそ150,000兵力であった。 そこで名前が挙がっているモンゴル将軍の数は、この遠征加わった兵の総数指標となる。恐らくこうした将軍10,000人を一単位とするトゥメンそれぞれ率いていたからである。 こうした侵略チンギス・カンの子孫やモンゴル将軍たちによって率いられており、その軍勢の規模は常に騎兵10,00030,000の間であったが、デリー年代記では100,000200,000騎兵数字誇張されている。 1260年代モンゴル帝国内戦(帝位継承戦争)が勃発すると、オゴデイ家カイドゥ混迷する中央アジア平定しカーン主権及ばない独自の王国(カイドゥ・ウルス)を建設した。これ以後、カイドゥ・ウルスに吸収されるとなったチャガタイ家王族ドゥアインド方面指導者となったドゥアアフガニスタンへ攻勢強めインドへとモンゴルの支配広げよう試みたチャガタイ曾孫である アブドゥッラー知事ネグダリ(Negudari)は1292年軍勢率いてパンジャーブ侵攻したが、先発したウルグー(Ulghu)指揮下の軍勢ハルジー朝スルターン敗れ捕虜となってしまった。4000モンゴル先発隊の捕虜イスラーム改宗し、「新たなムスリム」としてデリーに住まわせた。 彼らの住んだ郊外はその名にふさわしくマグホールプラ(Mughalpura)と名付けられた。1296年から1297年にかけてチャガタイ軍は何度もデリー・スルターン朝打ち破られた。 その後モンゴル繰り返し北インド侵入した少なくとも二度大軍押し寄せてきた。 その両軍1297年ジャランダル合流したが、ザファー・カーン(英語: Zafar Khan)に打ち破られた。 1298年モンゴル侵入の際は、テュルクモンゴル混成軍がラージプート諸王戦った。しかしモンゴル軍テュルク将軍戦利品分配めぐって対立し彼の兄弟暗殺してしまった。モンゴル軍妻子残酷に扱われ、彼らはラージプートの砦へ逃げ込んだ。[要出典]この年モンゴル軍はまたアラー・ウッディーン・ハルジーと再び対立する動き見せシンド侵入しシウィスタン(Siwistan)砦を攻略したモンゴル軍はサルディ指揮下で再び攻勢出てシーリー(Siri)砦を落とした不敗名将ザファー・カーンはこの軍勢苦も無く打ち破り、砦を再奪取して2,000モンゴル兵の捕虜アラー・ウッディーン・ハルジーの前へと引き出した。 まもなく、カイドゥカイシャン率いる元軍との戦いの中で亡くなったため、ドゥアは「カイドゥ・ウルス」を事実上乗っ取った上でチャガタイ・ウルス」を復興し大元ウルスとの和平模索した1304年ごろにはドゥア派遣した使者大元ウルスのオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)に臣従表明し、約半世紀続いた大元ウルスと「カイドゥ・ウルス」との対立終わった。その直後、彼はモンゴル一致団結したインド侵攻提案したが、その遠征実現することはなかった。

※この「チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝」の解説は、「モンゴルのインド侵攻」の解説の一部です。
「チャガタイ・ウルス対デリー・スルターン朝」を含む「モンゴルのインド侵攻」の記事については、「モンゴルのインド侵攻」の概要を参照ください。

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