チャガタイ家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 17:10 UTC 版)
チャガタイ家当主バラクが死んだ後、カイドゥは事実上チャガタイ家を併合し、カイドゥ・ウルスの傘下に入れた。この間にチャガタイ家の混乱を避けて東方の大元ウルス領に逃げ込むチャガタイ家王族が多く見られ、クビライはこれらの王族をチュベイを中心として河西〜ウイグリスタン方面に配置し、カイドゥに対する防波堤とした。チュベイを中心としたチャガタイ家諸王の連合体(チュベイ・ウルス)の領域にメクリン部の居住地は入っており、このため元代以後メクリン部はチュベイ王家(豳王家)傘下の部族として扱われるようになった。 メクリン人はチュベイ家の投下・分民としてシバウチ(sibau’či、鷹夫)やアバチ(abači、猟人)を務める一方、クムル東方の石城(タシュ・バルガスン)に設置されたジャムチに務める義務も有していた。そのため、チュベイ家の業務とジャムチの業務どちらを優先すべきかという問題が生じ、大徳11年(1307年)にはメクリン部はチュベイ家の業務よりもジャムチの義務を優先させよとの命令がクルク・カアン(武宗カイシャン)より下された。また、『経世大典』「站赤」にはチュベイの後を継いだ息子のノム・クリが同様に自らのシバウチを務めるメクリン人のジャムチの義務免除を願ったが、許されなかったことが記されている。 また、元代のメクリン部は「四枝滅吉憐民」とも記されており、4つの遊牧集団から構成されていたと見られる。
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