タラホーマ、チカマウガおよびチャタヌーガ (1863年6月-12月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「タラホーマ、チカマウガおよびチャタヌーガ (1863年6月-12月)」の解説
ローズクランズはストーンズリバーの戦いでの勝利の後、マーフリーズバラをほぼ6ヶ月間占領し、ブラッグはタラホーマにあって後方の戦略的に重要なチャタヌーガ市を北軍から守るために長い防衛線を布いていた。1863年4月、北軍のエイベル・ストレイト大佐の指揮する騎兵隊が中央テネシーのブラッグ軍に物資を補給している鉄道の攻撃に動き、ブラッグ軍をジョージア州まで撤退させることを期待していた。ストレイトの騎兵隊はミシシッピからアラバマを荒らし回り、ネイサン・ベッドフォード・フォレストの部隊と対抗した。ストレイトの襲撃は5月3日にジョージア州ロームの近くで疲れ切った部隊が降伏した時に終わった。6月、ローズクランズは遂にブラッグ軍に対して動き、タラホーマ方面作戦では輝かしいほとんど無血の勝利を挙げ、ブラッグ軍を中央テネシーから追い出した。 この期間、南軍のジョン・ハント・モーガンが2,460名の騎兵隊を率いて、6月11日に中央テネシーのスパルタから西に乗り入れ、ノックスビルに向けて動いているアンブローズ・バーンサイドのオハイオ軍の注意をテネシー州南部にいる南軍から逸らさせようとしていた。タラホーマ方面作戦の開始時点でモーガンは北に進軍した。モーガン隊は46日間で1,000マイル (1,600 km)を乗り回し、テネシーから北のオハイオまで橋や鉄道や政府の倉庫を破壊した後に捕獲された。11月、モーガン隊はオハイオ州コロンバスの刑務所から大胆な脱走を成し遂げ、南部に帰還した。 ローズクランズはタラホーマで数週間を過ごした後、テネシー川を渡り南に向かって南軍のジョージア州からの補給線を遮断することで、ブラッグ軍をチャタヌーガから追い出す作戦を立てた。ローズクランズは8月18日に行動を開始し、陽動作戦としてチャタヌーガに2週間砲撃を加えた。アメリカ連合国の上層部はミシシッピの師団とバージニアのジェイムズ・ロングストリートの軍団を送ってブラッグ軍を補強した。ローズクランズはブラッグ軍をジョージア州北西部の岩だらけの山岳地帯に追って行ったが、そこでは罠が仕掛けられているだけだった。ブラッグは9月19日から20日にかけてチカマウガの戦いを仕掛け、ジョージ・ヘンリー・トーマスの軍団に対して3個師団で総攻撃を掛けさせた。北軍の応援が到着したときに指揮系統の誤解で前線に大きな隙間が生じ、ロングストリートはその隙に付け込んで北軍を撤退させた。トーマスが配置していた防衛的部隊(「チカマウガの岩」)がいなければ、北軍は総崩れになっていたはずである。ローズクランズはこの敗北で落胆し、軍をチカマウガまで退いたが、これをブラッグ軍が包囲し、町を見下ろす高台を占領した。 グラントはビックスバーグで兵を休ませ、次にモービルを占領して東に進む作戦を練っていた。しかし、カンバーランドにいるローズクランズ軍のひどい苦境の報せがワシントンに入り、グラントは彼らを救援する命令を受けた。10月17日、グラントはミシシッピ方面軍全軍の指揮権を与えられ、西部戦線全軍を支配下に置いた。グラントはローズクランズをトーマスに置き換え、チャタヌーガに行って補給物資や援軍を得るために新しい補給線(「クラッカー・ライン」)を開く計画を承認した。間もなくシャーマンとジョセフ・フッカーの指揮する40,000名以上の部隊が合流した。北軍が脹れ上がる一方で、南軍は縮小した。ブラッグはロングストリートの軍団をノックスビルに派遣してバーンサイド軍の前進を抑えさせた(ノックスビル方面作戦)。 11月24日早朝に第三次チャタヌーガの戦いが始まった。フッカーは市内でも高い2つの山の1つルックアウト山に陣取った。翌日、グラントはもう1つの山、ミッショナリ・リッジにいるブラッグ軍を2重に包囲する作戦を立てた。シャーマンが北から攻撃し、フッカーは南から向かい、トーマスが中央を抑えるという作戦だった。しかし、シャーマンの攻撃は混乱の中で動きが取れなくなったので、グラントはシャーマン軍を救うために陽動作戦としてトーマス軍に小さな攻撃を掛けるよう命じた。トーマスの軍隊はチカマウガで惨めな思いをしていた後だけに、その付けを取り戻す機会と捉えて意気上がり、尾根に駆け上がって最初の攻撃を続け、南軍の前線を突破して後退に追い遣った。チャタヌーガは救われ、ノックスビルでもロングストリートがバーンサイドに敗れていた。政治的に敏感なテネシー州東部は南軍の支配から解放された。アトランタひいてはアメリカ連合国の心臓部へ直接向いた進入路が開けた。ブラッグはアメリカ連合国大統領のジェファーソン・デイヴィスと個人的な繋がりがあり、ペリービルやストーンズリバーで敗れた後も指揮官の位置に留まっていたが、ここにきて解任され、ジョセフ・ジョンストンが後を継いだ。
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