タイトル戦での大山・中原との対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:13 UTC 版)
「加藤一二三」の記事における「タイトル戦での大山・中原との対決」の解説
新進気鋭の天才として若くしてトップ棋士となったものの、タイトル獲得には時間がかかった。 1960年代は、上記の名人戦を皮切りにタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目、29歳で、ついに初のタイトル獲得を果たした。7回目はその防衛戦(第8期十段戦)であり、大山の挑戦を受ける形となったが2回の千日手を含む2勝4敗で失冠した。 1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 この期間、タイトル戦に14回登場したがそのうち中原との対決は9回にも上った。最初の対決は1973年度の名人戦であり、前年に13年に渡って君臨していた大山から名人位を獲得した中原に挑む形であった(よって中原の初名人防衛戦でもあった)。しかしストレート負けを喫し、以降、中原には十段戦において第15期(1976年度)、第16期(1977年)と連続で挑んだが、いずれも退けられた。中原との対戦成績は、最初の22局(第15期十段戦第1局まで)においては1勝21敗と惨憺たるものとなっていた。 一方、棋王戦においては1976年度に大内延介から2度目のタイトルを獲得し、翌1977年度に中原の挑戦を受けるが今度は逆にストレートで防衛を果たした。これは当時五冠で、棋王を獲得すれば全6冠達成が掛かっていた中原を阻む快挙でもあった(結果、これが中原の複冠の最高記録となる)。続く1978年度では王将戦でも中原からタイトルを獲得し、2冠を達成した。しかし、防衛は両方果たせず、棋王は米長に、王将は大山に奪取され(これは大山の最年長タイトル奪取記録でもある)、2冠は僅かな期間であった。その後は、1980年度に中原より十段を奪還し、翌年度は米長の挑戦を受けたが防衛を果たす。圧倒的に負け越していた中原に対しても、この期間においては勝ちこしている。 この期間(1960年度-1981年度)はタイトル戦は防衛を含んで19期に及んだが、もっぱら上記の通り大山と中原に阻まれる形で獲得タイトルは6期に留まった。一方で一般棋戦での活躍はめざましく、特にNHK杯将棋トーナメントでは6度の優勝を果たした(1960年・1966年・1971年・1973年・1976年・1981年)。また、1973年には当時の連盟会長であった加藤治郎の提案により、九段昇格規定が見直され、新制度(点数制)の規定に基づき、運用が開始された11月3日付で中原誠・二上達也・丸田祐三と共に九段に昇格した(これ以前で九段であったのは名人3期以上の経験者である塚田正夫・大山康晴・升田幸三の3名のみ)。
※この「タイトル戦での大山・中原との対決」の解説は、「加藤一二三」の解説の一部です。
「タイトル戦での大山・中原との対決」を含む「加藤一二三」の記事については、「加藤一二三」の概要を参照ください。
- タイトル戦での大山中原との対決のページへのリンク