ソーントン夫人のマッチレース
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「ヨーク競馬場」の記事における「ソーントン夫人のマッチレース」の解説
1804年8月25日にヨーク競馬場に10万人の観客を集めて行われたマッチレースは、史上最も有名なレースのひとつとされている。 マッチレースに乗る一方の当事者はアリシア・ソーントン夫人(Mrs.Alicia Thornton)といい、22歳の美しい女性である。女が本物の競馬場でマッチレースをやる、という話はイギリス中の関心を集め、8月25日のレース当日には10万人が押し寄せた。ジムクラックやエクリプスが走った時の10倍もの観客だったという。あまりにも観客が多かったので急遽、第6軽騎兵隊が招集されて警備に当てられた。観客の賭けの総額は20万ポンドに膨れ上がり、事前の試走で夫人が完全な全力疾走をさせることができることがわかると、夫人のほうが人気になった。 ソーントン夫人の対戦相手はウィリアム・フリント大尉といい、夫人の姉の夫、義理の兄である。二人は普段から一緒に馬に乗って猟に出かける間柄だったが、ある時どちらの馬が早いかをめぐって言い争いになり、それでは競走してみようということになった。2回対戦して2回ともソーントン夫人が勝った。フリント大尉は、ちゃんとした競馬場で金をかけて勝負しようと言った。フリント大尉はソーントン夫人が怖気づくと踏んでいたが、ソーントン夫人はその勝負を受け、ヨーク競馬場の2マイルコースで争うことになったのだった。 スタート地点に現れたソーントン夫人は、ヒョウ柄と黄色の乗馬服に青い袖のシャツを着て、帽子も青で揃えた艶やかな姿で、競馬場の観客を魅了した。これに対してフリント大尉は全身真っ白の冴えない格好だった。土壇場になって、フリント大尉はソーントン夫人に貴婦人向きの「横乗り」で乗るように要求した。それだと利き腕で鞭を扱えなくなるが、ソーントン夫人は要求を受け入れてその場で横乗り用の鞍につけかえて勝負に臨んだ。スタートするとソーントン夫人が先行し、残り1マイルのあたりでフリント大尉が仕掛けて先へ出た。ソーントン夫人が自分の馬を追いだそうとした途端、鞍がはずれて人馬ともに転倒した。フリント大尉は落馬した夫人を助けようともせずにゴールして勝負に勝った。夫人の方は怪我もなく、心配して駆けつけた観客にジョークを飛ばして笑わせた。 このレースの数日後、ソーントン夫人は何者かが横乗り用の鞍に細工をしていたこと、スタート間際になって急にフリント大尉が横乗りを要求したことは不当だと言って新聞に訴え、再戦を申し込んだ。フリント大尉のほうは逆に、ソーントン夫妻が負けたのに賭け金を払わないと言って訴えた。大尉の言い分では、事前に取り決めた賭け金は1500ポンドだったと主張し、ソーントン夫人の夫が500ポンドしか支払わず、残りの1000ポンドが未払いだと言った。ソーントン氏は、「1500ポンド」というのは観客を集めるために吹聴しただけで、実際は500ポンドの約束だったと主張した。ソーントン氏は、1500ポンドもの大金を賭けるわけがないだろう、冗談に決まってるだろうと言ったが、これは世間の顰蹙をかった。 結局両者の再戦は実現しなかったが、かわりにブロムフォード氏という男性がソーントン夫人と勝負したいと現れた。ブロムフォード氏の出した条件は2マイルの2回戦で、1走目と2走目は別の馬に乗るというものだった。ソーントン夫人がこの勝負を受け、1805年の夏にヨーク競馬場で再びソーントン夫人のマッチレースが実現した。賭けられたのは全部で金貨1100枚とフランスワインの大樽4つ(金貨2000枚相当の値打ちがある)だった。前年同様の大観衆が集まった。 スタートの直前になってブロムフォード氏は尻込みして、騎乗をとりやめた。ソーントン夫人は1頭で2マイルを完走し、1戦目に勝った。ブロムフォード氏は2戦目の騎手に代役を立てたが、ブロムフォード氏が連れてきた騎手はフランシス・バックル騎手といい、19世紀のイギリス最高の騎手である。バックル騎手はイギリスのクラシックレースを27勝し、この記録は150年以上破られなかったという人物で、ソーントン夫人のマッチレースに臨んだ時点で既にダービー3勝をあげていた。ソーントン夫人はこの恐るべき対戦相手にも怯まずレースに臨んだ。この年も夫人は「横乗り」で騎乗し、ゴール前では2頭が並んで叩き合いになり、首の上げ下げでゴールした。判定は短首差でソーントン夫人の勝利だった。当時の新聞『タイムズ』は「公式競馬での女性の勝利は史上初で、完璧な騎乗とともに、永久に語り継がれるだろう」と報じた。女性騎手の公式戦での勝利記録は1943年までソーントン夫人が唯一のものだった。(ただし、このレースでバックル騎手は夫人よりも約22kg重かったことも付け加えておく。) しかしレースの後には不名誉な逸話が残っている。観客に囲まれて勝利に湧く夫妻の前にフリント大尉が現れ、1000ポンドを払えと迫った。ソーントン氏はにべもなく断ったが、フリント大尉は公衆と夫人の面前でソーントン氏を口汚く罵ったうえ、持っていた鞭でソーントン氏を打った。フリント氏はその場にいたヨーク市長の命で侮辱罪と傷害罪で逮捕され、獄中で自殺した。ソーントン氏は後に夫人を残したままフランスへ渡り、愛人を作って二度と帰ってこなかった。しかも愛人に全財産を譲ると遺言して死んだため、夫人には何も遺されなかったという。
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