ステンゲル監督の采配
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「1953年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ステンゲル監督の采配」の解説
ニューヨーク・ヤンキースの黄金時代は、1920年代のベーブ・ルースとルー・ゲーリッグのミラー・ハギンス監督時代、1936年からのゲーリッグとディマジオで4連覇したジョー・マッカーシー監督時代、そして1949年からの5連覇とその後のリーグ4連覇のケーシー・ステンゲル監督時代、1961年から1964年までのミッキー・マントルとロジャー・マリスのラウル・ホーク監督時代、1998年から2000年まで3連覇したジョー・トーリ監督時代がある。このうち、史上最強と謳われるのは1927年と1939年で、これに1961年と1998年が続くとされている。では最長記録となった1949年から1953年までの5連覇の時代はどうだったか。 この5連覇の時代には打撃三冠部門のタイトルホルダーはゼロで、この間は首位打者も本塁打王も打点王もヤンキースの打者からは出なかった。投手三冠部門でも1951年ラスキ(奪三振164)、1952年レイノルズ(最優秀防御率2.06・奪三振164)、1953年ロパット(最優秀防御率 2.42)だけであった。リーグMVPも5年間で自軍で選ばれたのは1950年のフィル・リズート遊撃手と1951年のヨギ・ベラ捕手だけである。 投手陣がアーリー・レイノルズ、エド・ロパット、ヴィック・ラスキの先発三本柱がいて、トミー・バーン、そしてホワイティ・フォード。内野陣がジョニー・マイズ、ジェリー・コールマン、ボビー・ブラウン、ギル・マクドガルド、フィル・リズート、ジョー・コリンズ、ビリー・マーチン。外野陣がジョー・ディマジオ、ハンク・バウアー、ジーン・ウッドリング、ミッキー・マントル。このメンバーを見ても主砲ディマジオが衰えてマントルがまだ成長途上で彼が三冠王になったのは1956年であり、ビリー・マーチンも後半になってからである。投手ではバーンは前期(49~50年)に計30勝を挙げた後に放出され、後に大投手となったフォードは新人で9勝の後に朝鮮戦争に参加し戻ったのが53年で本格化したのはその後である。後に殿堂入りした選手はヤンキースに移籍する前に実績のあったマイズを除けばリズート、ベラ、マントル、そしてフォードのみで、ライバル球団のドジャースと比べると小粒であった。しかしそれでもリーグもワールドシリーズも5連覇した。これはケーシー・ステンゲル監督の用兵の冴えと選手の人心掌握の巧みさがうまく結実した結果であった。 やがてロジャー・マリスが移って来てミッキー・マントルとMM砲と呼ばれて、ベーブ・ルースのシーズン本塁打60本に挑戦する時代になった。5連覇(シリーズ5勝)以降は1954年にクリーブランド・インディアンス優勝の後に翌1955年からリーグ4連覇(シリーズ2勝)し、1959年にシカゴ・ホワイトソックスにペナントを奪わたが翌1960年からリーグ5連覇(シリーズ2勝)をして、1949年から1964年まで16年間で14度リーグ優勝し、シリーズ制覇は9回を数える。しかしヤンキースはドジャースや他の球団に比べて黒人選手の起用が遅れ、この黄金時代に常勝ヤンキースと謳われていた時期に次の世代を見通したスカウトが不十分であったことが、やがてミッキー・マントルの衰えとともに球団の衰退を招き、深刻な低迷期に入りことになった。
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