ジョチ・ウルスの自立化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:53 UTC 版)
「バトゥ・ウルス」の記事における「ジョチ・ウルスの自立化」の解説
バトゥの役後、その長男のサルタクが地位を継承したものの早世し、更にその後継者ウラクチまでもが早くに亡くなったことから、バトゥの弟のベルケがジョチ・ウルス当主の地位を継承することになった。ベルケの治世において、モンゴル高原本土では帝位を巡ってクビライとアリクブケとの間で内戦(帝位継承戦争)が勃発し、これによってジョチ・ウルスをる情勢は一変した。 とりわけジョチ・ウルスにとって問題とされたのは西アジア遠征軍を率いるフレグがイランを中心として自立した(フレグ・ウルス/イルハン朝)ことで、ベルケにとっては本来ジョチ家が得るはずであったイランでの権益(特にアゼルバイジャン地方)をフレグに奪われる形となった。そこでベルケは自ら軍を率いてカフカス山脈を南下し、デルベント一帯においてフレグと激戦を繰り広げた。結局、両者ともに決定的な勝利を収めることはできず、ジョチ家はアゼルバイジャン地方を取り返すことはできなかったため、カフカス山脈を挟んだモンゴル系国家同士の対立は以後長くジョチ・ウルス右翼勢力=バトゥ・ウルスにとって宿痾となった。また、ベルケとフレグの抗争は、この戦争で活躍した「右翼」に属するジョチ家王族ノガイが台頭するという副産物ももたらした。 一方、中央アジア方面では帝位継承戦争を経てオゴデイ家のカイドゥやチャガタイ家のバラクが独自に勢力を拡大し、やがてベルケの後継者モンケ・テムルとカイドゥ、バラクの間で中央アジアの領土が分割されるに至った(タラス会盟)。モンケ・テムルはカイドゥと異なり明確に大カアンたるクビライを否定したわけではないが、中央アジアの混乱によって東方の大元ウルスとの通好は途絶え、ジョチ家は独自の道を歩むことになった。 また、ベルケの治世についてもう一つ特筆すべきは、ベルケがモンゴル皇族としては初めて正式にイスラム教徒になったことである。ベルケが最初期のモンゴル帝国皇族としては珍しくイスラーム教の信奉者となったことは諸史料が一致して伝えており、同時代の史家ジューズジャーニーはイスラム教徒として育てられたベルケがジョチ・ウルス内でムスリム部隊を指揮し、またハン位継承後のヒジュラ暦631年(1233年/1234年)には同じくイスラム教国のインドの奴隷王朝に友好を求める使者を派遣したと述べる。また、ヨーロッパからモンゴル帝国の首都カラコルムまで旅行したウィリアム・ルブルックもバトゥの宮廷を訪れたムスリムは必ずベルケの下にも立ち寄り、ベルケの下では豚肉は食べられないと証言している。もっとも、ベルケと同時代のジョチ・ウルスの主要人物でムスリムに改名した者の記録は皆無であり、ベルケのイスラム教改宗はジョチ・ウルス内のごく一部の影響を与えたに過ぎないようであるが、「ジョチ・ウルスのイスラム化」の重要な第一歩になったことは間違いない。
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