ジョチ・ウルスとルーシ諸侯の関係
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「ウズベク・ハン」の記事における「ジョチ・ウルスとルーシ諸侯の関係」の解説
ウズベクの即位後、全ルーシの諸侯と主教は彼の元に赴いて書状を受け取り、支配の再確認を受けた。トクタ・ハンの時代から起きていたモスクワ大公国とトヴェリ大公国の抗争では、ウズベクは義兄弟のユーリー3世が統治するモスクワを支持した。 1315年にトヴェリの支配に反発したノヴゴロドが反乱を起こすとウズベクはトヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチに軍勢を貸し与えて鎮圧を命じ、翌1316年にミハイルがモンゴルの力を借りずに再発したノヴゴロドの反乱を鎮圧しようとする、トヴェリをより危険視するようになる。政略の一環としてユーリーのもとにウズベクの妹クンチェクが嫁ぎ、ユーリーはモンゴル軍を伴ってトヴェリを攻撃するが、1317年12月22日のボルテネヴォの戦いでモスクワ軍はトヴェリ軍に敗北する。この戦いでクンチェクはトヴェリに捕らえられるが、戦後すぐにクンチェクはトヴェリで病死し、彼女はミハイルに毒殺されたという噂が流れた。サライに召喚されたミハイルは裁判にかけられて1318年11月22日に暗殺され、ミハイルの死は多くのルーシの人間に悼まれた。 1324年にミハイルの遺児ドミトリーが独断でユーリーを暗殺し、翌1325年にウズベクはドミトリーの行為に対して死罪の判決を下した。2人の死後、ユーリーの弟イヴァン1世がモスクワ大公位を、ドミトリーの弟アレクサンドルがトヴェリ大公位を継いだ。 1327年、トヴェリで民衆の反乱が発生し、同地に派遣されていたバスカクのチョル・ハーンとモンゴル兵が殺害される。トヴェリと周辺の地域は50,000超のモンゴル兵の攻撃によって壊滅し、アレクサンドルはプスコフへと逃亡した。1328年にウズベクはイヴァンをウラジーミル大公位に就け、帰国したアレクサンドルを一度は許すが、1339年にアレクサンドルと彼の子のヒョードルを処刑する。 また、ウズベクは拡張しつつあるリトアニア大公国に対しても、ロシアと同様に武力による圧力をかけた。1340年にイヴァンの跡を継いでモスクワ大公となったセミョーンにウズベクは好意を示し、リトアニアに対抗する兵力を供給した。
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