ジョチの出生をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:58 UTC 版)
ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。 ペルシア語の歴史書『集史』によると、ジョチが母のボルテの腹の中にいたとき、まだ弱小勢力だった後のチンギス・カンことテムジンの幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部族の君主トクトア・ベキ率いる軍勢によって襲撃される事件があった。メルキト部族に連行された時、ボルテは既にテムジンの子を身籠っていたという。テムジンの同盟者であるケレイトのトオリル(後のオン・カン)がメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、トオリルはテムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻した。テムジンは側近のひとりだったジャライル部族に属すセベという人物を派遣してボルテを護衛し、その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児を出産した。出産後、セベは揺かごの用意も出来なかったので少しばかりの穀粉で柔らかな練り物を作ってそれでジョチをつつみ、さらに、自らの衣服の袖に包んで手足が痛まないよう大事に運んだと言う。こうして、ケレイトからテムジンの居る幕営地までの旅中で生まれた男子だったので、「旅客」を意味するジョチという名を与えられたのだという。 一方、モンゴル語で記された『元朝秘史』では、 もともとチンギス・カンの母のホエルンはメルキト部の者と結婚していたが、モンゴル部のイェスゲイによって略奪されてその妻となり、テムジン(後のチンギス・カン)を生んだ。のちにイェスゲイの遺児のテムジンが結婚したことを知ったメルキトは、ホエルン略奪の復讐としてテムジンを襲撃してボルテを略奪し、ホエルンの元夫の弟にボルテを結婚させた。一方、逃げ延びたテムジンはトオリルとジャムカの助けを得てメルキトを討ち、ボルテを取り戻す。しかし、そのときボルテは妊娠して出産間近であり、まもなくジョチが生まれた。このため、ジョチはメルキトの子ではないかと疑われ、のちにジョチのすぐ下の弟のチャガタイは、父の面前でジョチをメルキトの子と罵ったが、チンギス・カンはあくまでジョチを長男として扱った。 というもので、現在では『集史』の伝える話よりも広く知られている。明らかな編纂意図を持って記録や口承をまとめ編集された散文の歴史書である『集史』と比較すると、韻文を多用した『元朝秘史』は英雄叙事詩的な歴史物語の性格が強く、どの程度史実を伝えたものかは定かではない。ただし、ジョチがチャガタイと不和だったのは事実であり、『集史』の伝えるような出生の事情を問題視される向きがあったことは事実のようである。 『元朝秘史』の物語については、そもそもモンゴルと代々婚姻を重ねる関係にあるコンギラトの出身であるホエルンがもともとメルキト部の者と結婚していたという話が信憑性に乏しいため、略奪叙事詩としての筋を盛り上げるために付け加えられた話であると主張する学者もいる。
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