ジョチ・ウルス及びバラクとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 11:19 UTC 版)
「アバカ」の記事における「ジョチ・ウルス及びバラクとの戦い」の解説
1265年2月に父フレグが没した時、彼はこのためホラーサーン地方にいたが、ただちにヨシムトが管轄していたタブリーズに上り、フレグの葬儀を済ませると、同年4月にクリルタイを開催し、6月15日に西征軍の王族・諸将に推戴されるかたちでフレグの王位と西征軍全軍を継承し即位した。イラン全土の諸地域をヨシムトやトブシンなどの兄弟たちに委ね、アーザルバーイジャーンやファールス、ケルマーンなどの諸地域は引き続きクルト朝やアルトゥク朝などのアタベク政権、カラヒタイ朝などの諸勢力の安堵を約束し、財務官庁をワズィールのシャムスッディーン・ジュワイニーに、さらにバグダードの経営についてはワズィールの弟で、イラク地方へ派遣されたスンジャク・ノヤンの補佐官となった歴史家アターマリク・ジュワイニーに任せるなどして、諸地方の統治の整備をまず取掛かった。 翌7月初旬にはノガイの再三に渡る侵攻に対しヨシムトの派遣を行い、これを撃退に成功。今度はベルケ自身が親征するところとなりクラ川渡河のためにグルジアのティフリス近郊まで大軍を率いて迫ったが、この地でベルケが急死し、ジョチ・ウルス軍は撤退。北方の脅威は一端は納まった。 しかし1269年、東方のチャガタイ・ウルスの当主位をムバーラク・シャーから奪ったバラクが、オゴデイ・ウルスのカイドゥやジョチ・ウルスのモンケ・テムルと協定を結び、そのままアムダリヤ川を渡って親征し、ヘラート近郊まで攻め入った。アバカは自ら諸軍を率いて、1270年7月21日にヘラート南部のカラ・スゥ平原の戦いでこれを迎撃・撃破し、大勝をおさめた。この戦いに前後してカイドゥと協定を結んで休戦している。
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