シャネルの策略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:47 UTC 版)
1940年代半ばまでに、シャネルNo.5の売り上げは全世界で年900万ドルに達していた。この金額は、21世紀の価値に換算すると、年2億4000万ドルに値する。金銭的なリスクは大きかったが、シャネルは「パルファム・シャネル」の経営権をヴェルテメール兄弟からもぎ取る決心をしていた。 シャネルの計画は、顧客のブランドへの信頼やイメージを傷つけ、商品の売り上げをダウンさせようというものだった。シャネルN°5はもはや「マドモワゼル・シャネル」が生み出したオリジナルの香りではないこと、市販されているものは彼女の決めた配分基準には適合しないものであり、その劣った品質を彼女は認めることができないことを公表した。 さらにシャネルは、本物のシャネルN°5を作ると発表し、「マドモワゼル・シャネルN°5」 と名付けて選ばれた顧客に提供した。 シャネルはおそらく知らなかったが、1940年にフランスからニューヨークに避難したヴェルテメール兄弟は製法を確立し、シャネルN°5の品質は安定したものとなっていた。アメリカでヴェルテメール兄弟は「パルファム・シャネル」の特使としてH.グレゴリー・トーマスを受け入れた。トーマスの任務は、シャネルの製品、特に最上の利益を生む香りシャネルN°5の品質を維持するメカニズムを確立することだった。 フランスのグラースのみで産出されるジャスミンとチューベローズの精油は香水の重要な構成要素だが、トーマスはこれらの確保に動き、戦争中も途切れることなく供給を受けていた。トーマスはのちにシャネルのアメリカ法人の社長に就任し、32年間その地位を保持した。 シャネルは、「パルファム・シャネル」とヴェルテメールを相手取った訴訟を起こし、戦略を拡大した。法廷闘争に加え、大きな広告も出した。1946年6月3日のニューヨーク・タイムズには次のような記事が掲載された。 この訴訟は『品質が劣る』ことを理由に、『フランスの親会社「パルファム・シャネル」がシャネルN°5全製品の製造販売を中止し、所有権と製品の独占権を彼女に戻すこと』を求めたものである。 ヴェルテメールは、ナチス占領の間のシャネルの行動が、社会的に受け入れられがたいものであることを認識していた。法的手続きが進行するにつれ、当然のごとく、大衆の詮索から遠ざけられてきた事実が明らかになってきた。『フォーブス』誌は、ヴェルテメールの窮地について次のようにまとめた。 『ピエール・ヴェルテメールの苦悩 : 闘争により、戦時中のシャネルの行動が明らかになれば、彼女のイメージ、ひいては彼のビジネスが打撃を受けるかもしれない。』 最終的にヴェルテメールとシャネルは示談に応じ、1924年の契約は締結しなおされることになった。1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルN°5の利益分として、21世紀の評価額にして約900万ドル相当の金額を受け取るとともに、将来におけるシャネルN°5の世界売り上げの2パーセントを取り分とすることとなった。彼女への金銭給付は莫大なもので、1年につき2500万ドル近くに上り、シャネルを世界で最も裕福な女性に押し上げた。 シャネルはまた、名称に「N°5」を含まないことを条件に「パルファム・シャネル」を離れて新しい香りを生み出す権利も得たが、それを行使することはなかった。
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