サッカーW杯開催地へ立候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:41 UTC 版)
「豊田スタジアム」の記事における「サッカーW杯開催地へ立候補」の解説
愛知県では、1989年に刈谷市が5万人収容で国際規格のサッカースタジアムの建設を計画していた。また、同時期に2002年に開催予定のFIFAワールドカップ(W杯)を日本に誘致する計画が浮上し、愛知県でも開催地を誘致する動きが活発化した。愛知県内では、1992年7月13日に刈谷市が正式に誘致を表明した。 名古屋市でも誘致の検討がはじまり、1993年1月14日に立候補を表明した。立候補時は名古屋市瑞穂公園陸上競技場の増築によって賄う計画で、同年7月25日にはスタンドを2層構造とするなどの具体案が発表されたが、 増築に伴う近隣住宅の立退き費用が多額であること。 増築そのものが消防法に抵触する可能性がある。 という2点の問題や狭い敷地のために周辺が人であふれかえることなどに日本サッカー協会が難色を示したため、計画の実現性が低いと判断され、1994年5月9日に瑞穂案の断念が発表された。 続いて、名古屋市南部の大高緑地公園に10万人収容のサッカー専用スタジアム構想を立ち上げ、「決勝戦も可能」と謳うが、環境保護団体と地域住民の猛烈な反発にあい、計画段階で断念。 さらにナゴヤドーム 内に天然芝を敷き詰めて開催する案を提出するものの、打つ手をなくした名古屋市としては条件を満たすスタジアムの設置が不可能と判断し、立候補を取り消す事態に発展した。 一方、豊田市では1993年12月の市議会で加藤正一市長がW杯誘致に意欲を見せた。1994年10月24日には、豊田市体育協会・連合愛知豊田地域協議会・豊田商工会議所の代表が、同年8月から10月にかけて集めたサッカー場を建設を求める254,899人の署名を豊田市長・市議長に手渡した。 W杯誘致では、名古屋市の撤退が発表された後、日本サッカー協会から「日本有数の大都市圏で試合が無いのは問題である。」との意見が入り、1995年1月25日、愛知県が立候補を発表。同年2月9日に日本サッカー協会理事会で承認された。名古屋市の立候補により表立った活動をしてこなかった刈谷市と豊田市の2市が立候補に名乗りを上げ、熾烈な誘致合戦を行った。 1995年4月12日、愛知県サッカー協会の審査の結果、交通の便や市民の熱意は刈谷市が上回るものの、 市の財政力が高い すでにスタジアム構想が立ち上がっていることで、土地収用等の時間が短縮できスタジアムの建設が容易 との理由で「愛知県」枠は豊田市となった。 1995年夏に豊田市の新聞『矢作新報』が市民千人にスタジアム建設の是非を問うたアンケートでは、賛成20%、反対40%、どちらでもない37%との意見であった。
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