こう‐はん【公判】
こう‐はん【孔版】
こう‐はん〔クワウ‐〕【広×播】
こう‐はん〔クワウ‐〕【広範/広汎】
こう‐はん【後半】
こう‐はん〔カウ‐〕【×攪×拌】
こう‐はん〔カウ‐〕【江畔】
読み方:こうはん
大河のほとり。
こう‐はん【洪範/×鴻範】
こう‐はん〔カフ‐〕【甲板】
こう‐はん【紅斑】
こう‐ばん〔カウ‐〕【鋼板】
こう‐はん〔カウ‐〕【降版】
撹拌
甲板
後判
興販
高蕃
コウハン | ||
袁尚の将。 建安七年(二〇二)九月、曹操が黎陽城の袁譚を攻撃したので《武帝紀・袁紹伝》、袁尚はみずから軍を率いて袁譚を救援するとともに、魏郡太守高蕃を黄河のほとりに差し向けて曹操軍の水上輸送を遮断させた《袁紹・李典伝》。 曹操軍の軍糧を水上輸送していたのは程昱と李典であったが、曹操から「船を渡すことができなければ陸路を使え」と命じられていた。しかし李典は「高蕃の軍勢には甲冑を身に着けた者が少なく、川の流れを当てにして懈怠の心が見られる。攻撃すれば必ず勝利できるだろう。軍は中央の束縛を受けない。国家に利益があるならば独断が許されるのだ。早急に攻撃すべし」と主張し、程昱もそれに賛同した《李典伝》。 |
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