クァエストル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:43 UTC 版)
「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「クァエストル」の解説
財産を相続したスッラはクルスス・ホノルムを歩み始める。スッラは紀元前107年に財務官(クァエストル)に就任したが、その年の執政官が後に因縁の仲となるガイウス・マリウスであった。スッラより20歳ほど年上のマリウスは、小スキピオの配下として軍務経験を重ね、政治家に転身して護民官を皮切りに法務官や属州総督を務めた後、紀元前109年に北アフリカで起きたユグルタ戦争でローマ軍のレガトゥス(副将)として出陣していた。しかし司令官クィントゥス・カエキリウス・メテッルスと対立して紀元前108年末に単身帰国し、戦争の早期終結を公約に新たな執政官に当選した。マリウスはメテッルスに代わってユグルタとの戦いの指揮をとることになる。 スッラはヌミディアへ侵攻するマリウスの下へ配属され、同盟市から騎兵を集め、北アフリカで略奪を行うマリウスに遅れて合流した。マリウスは、この自堕落な若者を配下に迎えなければならないことに怒ったという。マリウスは冬営地をキルタに定め、移動中にユグルタとその義理の父であるマウレタニア王ボックス1世の襲撃を幾度か撃退した。スッラは騎兵を率いてよく戦った。ボックスはマリウスに使者を送り話し合いを望んだため、アウルス・マンリウスとスッラが派遣された。雄弁なスッラはボックスを説得し、その態度を軟化させた。ボックスはマリウスの不在中に使者を送り、プロプラエトル権限で守備を任されたスッラにもてなされた。マリウスの帰陣後、軍中コンシリウム(指揮官会議)が行われ、使者たちはローマへ赴き許しを求めることとなった。
※この「クァエストル」の解説は、「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の解説の一部です。
「クァエストル」を含む「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事については、「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の概要を参照ください。
クァエストル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:20 UTC 版)
「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「クァエストル」の解説
紀元前69年に財務官(クァエストル)に選出された。この頃、叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行った。またこの時、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げてみせたという。妻のコルネリアも同年死去したため、カエサルはクィントゥス・ポンペイウス・ルフスとスッラの孫であるポンペイアと結婚した。 財務官として、カエサルはヒスパニア・ウルテリオルのプロプラエトル、ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスの下で働く。ここでアレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスは今の私と同じ年の頃には世界を手に入れた。自分は何もなしえていない」と落胆し、こんなことをしている場合ではないと、辞任を申し出ようとした。カエサルはこの夜に母アウレリアを犯す夢を見たため激しく狼狽したが、占い師は「母とは全ての母に当たる『大地』である」と解釈し、彼が支配者となる証だと焚き付けた。カエサルは任期を早めに切り上げ、ローマに帰る途中、ローマ市民権を要求して不穏な空気が流れていたトランスパダナ(ポー川以北)地方を回った。スエトニウスは、彼が何かしら企んでいたのかもしれないとしている。 この時期、カエサルはローマ転覆の陰謀への関与が取り沙汰された。上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任する直前に、その年収賄の罪で予定執政官の地位を剥奪されていたプブリウス・コルネリウス・スッラ(紀元前68年のプラエトル)とプブリウス・アウトロニウス・パエトゥス(紀元前68年のプラエトル)、クラッススと謀り、元老院を強襲してクラッススを独裁官、カエサル自身はその副官である騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)としてローマを壟断しようとする計画であった。これは複数の歴史家が記録しているが、結局クラッススが決心できず未遂に終わったという。他にもトランスパダナのガリア人らと呼応して決起する計画もあったという。
※この「クァエストル」の解説は、「ガイウス・ユリウス・カエサル」の解説の一部です。
「クァエストル」を含む「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事については、「ガイウス・ユリウス・カエサル」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からクァエストルを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- クァエストルのページへのリンク