ギルドと工房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 05:16 UTC 版)
15世紀のヨーロッパでは、注文主が芸術家に作品制作を依頼するときには、その芸術家が主宰する工房を訪れるのが普通だった。芸術家が活動できる場所(都市)は当地の芸術家ギルドによって厳格に定められており、限られた人数の芸術家のみが独り立ちした画家(マスター)として認められていた。芸術家として生計を立てるには、ギルドに加盟することが義務付けられていたのである。当時のギルドは芸術家の芸術活動を庇護するとともに、制作、品質、売買、画材の供給などに制限を加えていた。これらの規則は、板絵画家、布地画家、書籍装飾画家など、画家のジャンルによっても細かく分かれていた。たとえば装飾写本のミニアチュール作家には、油絵具の使用禁止など、他のジャンルの画家よりも厳格な規則が定められていた。概してギルドでもっとも優遇されていたのは板絵画家で、その次が布地画家だった。 ギルドの会員権は極めて制限されたもので、新参者が取得することは困難だった。マスターとして認められるには徒弟として一定の修業を積んでおり、尚且つ活動したい都市に生まれたか、あるいはその都市の市民権を購入することを求められた。徒弟の修業期間は通常四年から五年で、修行を終了するときには自身が優れた芸術家であることを証明する「傑作」を制作し、さらに加入する芸術家ギルドに対して相当額の入会金を支払う必要があった。ギルドの会員には高い品格や技術が求められていたにとどまらず、このような金銭的な面においてギルドへの新規入会は富裕層出身者に有利なものだったと言える。他職種のギルドから作品制作依頼が舞い込むこともあった。もっとも有名な例としてファン・デル・ウェイデンの『十字架降架』があげられる。この作品の依頼主がルーヴェンの弓射手ギルドであったことから、弓射手が使用するクロスボウを模った「T字」でキリストの姿形が描かれている。 工房は芸術家の自宅に併設され、徒弟を内弟子として住み込ませることが多かった。当時の画家は売れ筋のデザインや線画を描きこんだパネルを事前に準備していることが普通だった。大規模な工房の場合、その経営者、責任者たる画家は絵画作品の重要な部分、たとえば肖像画であれば顔、指、複雑に刺繍された衣服など、高い技術が要求される個所のみを担当することが多かった。作品の重要ではない箇所は工房の未熟な徒弟や助手が仕上げることとなった結果、画家本人が直接手がけた箇所と弟子や助手が手がけた箇所とで作風が明確に異なっている作品も少なくない。ヤン・ファン・エイクの『キリスト磔刑と最後の審判』が、このような作風の違いがもっともよく知られる作品となっている。ヤン・ファン・エイクのように経済的にまったく問題がない画家であれば、過去に商業的に成功した作品の複製画を工房に制作させることだけでも生活は成り立ち、画家自身はまったく新しい作風、構成の絵画作品の追求に専念することもできた。大規模な工房を中心とした絵画制作の場合、画家は下絵や略図を描くだけで以降の制作工程はすべて工房の弟子たちによる作業となることも珍しくなかった。結果として、構成は一流だが仕上げが二流以下という絵画も現存しており、それらは画家個人の作品ではなく「画家○○の工房の作品」とされるか、後世の画家による模写という扱いになっている作品も多い。
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