カリカットでの殺戮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:06 UTC 版)
「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「カリカットでの殺戮」の解説
アンジェディバ島を出立した艦隊は9月13日にカリカットへ至った。カブラルとザモリン(カリカットの領主の称号)の交渉は上首尾に終わり、一行は商館と倉庫を建設する許可を得た。更なる友好関係を築くべく、カブラルはザモリンの要望に応じるかたちで部下の一部を現地の軍事行動に参加させた。しかし12月の16日か17日、ポルトガル商館はアラブ系ムスリム勢力とヒンドゥー勢力の連合した300名(数千という記録もある)の部隊による奇襲を受けた。弩兵隊による懸命の防御も空しく、ポルトガル側は50名以上の死者を出した。生き残った者たちは船へと退避し、中には泳いで逃げ延びた者もいた。アラブ商人たちが嫉みから私的に煽動しただけの可能性もあると考えたカブラルはザモリンによる弁明を待ったが、24時間ほど経過しても謝罪の使者などが来る様子はなかった。 商館襲撃と仲間の殺害に憤ったポルトガル人たちは、港に停泊していたアラブ商船10隻を襲って乗組員約600名を殺害し、商人たちが積荷を燃やそうとするのを妨害してこれを奪った。カブラルは更に、約定違反の報復としてカリカット市街へ丸一日の連続砲撃を行うよう命じた。イベリア半島や北アフリカにおいて数世紀も続いたムーア人との抗争により、ポルトガル人たちが元からムスリム勢力への強い敵対心を持っていたことも過激な報復につながった(「レコンキスタ」を参照)。更にポルトガルは、香辛料貿易を独占して如何なる競合相手も排除していく方針を採っていた。アラブ商人たちにとり香辛料取引の独占権をポルトガルに奪われることは痛手であったが、ポルトガルは香辛料取引に係るあらゆる方面において優先権を要求していた。カブラルが携えてきたカリカット領主宛のマヌエル1世親書を翻訳したのはザモリン配下のアラブ人通訳で、その内容はアラブ系交易商人の排除を求めるものであった。それを知ったムスリム系商人たちは自らの商取引機会や生活基盤が損なわれる危機と確信し、ヒンドゥー勢力である領主を動かしポルトガル勢力に対抗するよう仕向けたのである。ポルトガル勢力とアラブ勢力は、互いに一挙手一投足を疑い合っている状態だった。 歴史学者のWilliam Greenleeは、この時のポルトガル側の意図について「自分たちの隊は少人数であるし、今後インドへやってくるであろう友軍艦隊も数の上では不利になる筈だと気づいていた。ゆえに、この時の約定破りに対しては断固たる報復を行い、将来にわたってポルトガル勢力が恐れられ敬意を払われるように仕向ける必要があった。火器装備の性能ではポルトガル側が上回っていたため、目的を達成することができたのである」と論じている。こうしてカブラル艦隊は、その後数世紀にわたってアジア諸地域で繰り広げられるヨーロッパ勢力の砲艦外交史に先鞭を付ける格好となった。
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